同時に共同体としての村意識も強く働いた。生き延びる為に棄教を装い、それ以後、表は仏教徒を装いながら、自分たち信者同士の間だけで、その信仰を守るという二つの顔を持った二重生活を送り、明治六年解禁後も教会に戻る事なく、先祖から受け継いだ信仰を今日まで隠して伝えている人々がおられます。これを隠れ切支丹と呼んでおり、この切支丹時代は歴史の中で、比較的重要視されること無く、一般の関心はさほどありませんでした。しかし歴史の中で二つの異質の思想、宗教、楕神文化が激突した時が、最も興味有る時代とするならば、キリシタン時代と言うのは仏教渡来のそれと同じように、日本人が新しいものと戦い、それを我がものにしようとした季節なんであります。
 キリシタン時代に興味をもつ所は、日本人が初めて西洋とぶつかった時代だからであり、キリスト教と言う、最も縁遠い、しかも西洋思想の中核であります激烈な宗教の風を、まともに受けた訳で、その為にあれだけの多くの殉教者と棄教者が出て、おびただしい血がそこに流れたとも言えます。
 事実、キリシタン時代の初期から中期にかけまして、日本人が宣教師を歓迎したのは、彼らと共に運ばれてくる西洋の品物、武器が手に入るという物質的な欲望からでもありました。その上、宣教師たちは此の見知らぬ国で、布教の許可と生命の保護とを得るためにも、戦国領主の関心を求める必要があった。領主たちは、海外貿易による利益の獲得を考えておりましたので、宣教師、領主双方に利害開係の一致による妥協が出来上がっていたことも事実であります。日本人はこの時、はじめてキリスト教を通じて西欧の文化に接することが出来た。
 キリスト者の人生というものは、ある意味でイエスの生涯に倣(なら)う事であります。イエスが地上で説いた愛の意味を、その生涯から考えることであります。我々の人生の悲しみを、イエスの苦しみに重ね合わすことは、キリスト者の大きな慰めであり、力づけとなったのだろうと思います。が、しかし彼らがこの時、西洋思想ををどこまで理解し得たのだろうか。宣教師の説く西欧のキリスト教の教義は、言葉の弊害もあって、必ずしもそれを聞く日本人に正確に理解されたとは言えないようで、ザビエルは、日本人信徒がゼウス(神)を大日如来と聞き違えていたことを知り、愕然としたとも記しております。にも拘らず宣教師の数も増え、信長のような権力者がキリスト教の布教を認め、各地に教会、神学校が建てられるようになりますと、日本人の強い好奇心から、急激なブームを呼ぶ様になりました。時期的にも戦国時代の待たちは、戦乱に明け暮れる生括の中で、心の寄り所になるものを求めていたし、また封建制社会の下ずみに生きた不幸な農民漁師たちは、キリスト教の言う、神のみ前での『人間の平等』的な考え方は、心に滲みる教えであったに違いありません。
 処が西欧諸国の極東侵略という政治的な問題も絡み、事実、宣教師の中には日本をキリスト教国にする為には、此の国の武力占領もやむを得ないという司察もあったようで、それゆえ大名武士の信者の中には、教会に疑問を持つ者も出てきた。
 そのような流れの中で、豊臣秀吉の宣教師追放令、江戸幕府の禁教令が出て、棄教者と共に多くの殉教者を見るに至った。
 家族制度や部落組織の中で生活している一般農民信徒にとっても、それは自分一人の問題で片付けられることではなくて、

村や部落全体の運命に関することでしたから、個人で処理出来ぬ場合もあったのです。村意識と祖先崇拝意識とが、隠れ切支丹を強く結び付けて、禁制という公儀を越えて、村人を結束させた葉団の信仰だったのであります。そして宣教師追放後は、一人の司察も無く、教会すらないこの秘密組織体では、キリスト教が、次第に歪(ゆが)められていったのは当然であります。世に言う『隠れ切支丹』に興味を持つ処は、此の点であります。その形、内容もさることながら、キリスト教が日本の風土の中で風化されると、どういう歪み方をするのか、西洋で行ったキリスト教の教義が、教会から全く断絶した日本人の農民漁師の中で、どう変って行ったのか。
 当時日本人が知った西洋と言うものは、幕末明治の日本人が知った西洋の文明、技術、制度ではなくて、キリスト教と言う西洋思想の中核をなすものでありました。宣教師たちは西洋の根本宗教を通して、西洋人の思考方法、論理を教えました。政治と宗教との狭間にあって、日本人がヨーロッパの本質的なものをどこまで理解し得たのかということが、ここが問題意識出発の糸口でもあります。
 隠れ切支丹の多くは平戸、天草、五島、生月島そして長崎県西彼杵(そのぎ)半島に住む農民漁師であります。鎖国の長い歳月の間、表は仏教徒を装いながら、自分たち信者同士の間だけで、その信仰を守るという二重生活を送らなければならなかった。私はその歪みの手掛かりを求めて、それらの土地を総て訪ね歩きました。そして天草の崎津と言うところに、今もって毎朝オラショ(ラテン語によるカトリックの祈りの翻訳)を唱え、その作法を伝えているという山下富士夫さんという方がおられることを突き止めた。今年の三月一日、断られることを覚悟して、しかし何か捨い上げるものを期待しながら、ご自宅をお訪ねしました。来意を告げると思いがけず納戸に招じ上げてくれました。これが祭壇です。そして其処で分かったことは・・・・・・。その結果は折りを見てお話したいと思いますが、キリシタンの遣跡を探りたい方は長崎の口之津、原城、有馬を訪ねて戴きたい。道は細いが、風景は素晴らしいです。キリシタンの歴史を思うと、此の風景が美しければ美しいほど、或る言いようのない悲しみに襲われるのであります。この美しい風景の中で多くの人の血が流れ、人々は苦難の道を歩まなければならなかった。口之 津の防風林の植えられた海岸には、今も人々に見捨てられたキリシタンの蒲鉾型の墓碑が、ポツンと残っております。(酒枝先生さえ も近く迄行きましたが、立ち寄ろうとはなさいませんでした)花十字のついたその墓は、埋められた人の身元も生涯も分からないだけに、見ていると様々な思いが心に沸いて参ります。
 その頃の口之津は、島原地方の布教中心でした。町の人は恐らく自分たちが住んでいる場所に、四百年前、教会が建てられ、唐人 南蛮人が往来し、キリストを讃える賛美歌が流れていた事に、今、 それほど関心は無いでしょう。⇒ 有馬晴信、直純の居城であった日之枝城址、領主有馬義直が修道士アルメイダを城に招いてキリスト教の教義を学び、洗礼を受けた。 天正八年六月、日本最初のセミナリオ(神学校)を本丸下に建てて、十五歳前後の少年たちが日本の古典や、キリスト教の教理、ラテン語、西洋楽器をここで学んだ。当時としては最も進歩的な文化人となるべく、育てられたのでしょう。だが今日、そうした面影を留める何も残っておりません。彼らの子孫さえいないのであります。 3頁目>