ここの村人の殆どが、やがて原城の島原の乱に巻き込まれて死んでゆく。後に移住したのは、小豆島の農民たちでした。 ⇒原城のような、農民と武士の凄まじい戦いが繰り広げられた城址に立つと、その思いは更に募ります。幕府軍の上使・松平信綱は、 兵糧攻めの持久戦を行い、海上からオランダ船をして砲撃させた。やがて城内の食料も乏しくなったとき、凄惨極まる総攻撃がかけられ、生き残ったものは老若男女を問わずその場で処刑された。その数一万八干人と言う。老人・女・子供が隠れた空壕(からぼり)のあとには、今、お地蔵様が並んで立っている。天草四郎の首も細川家の武士によって挙げられた。その凄惨な攻防戦の声や呻き声までが、聞こえてくるようであります。
 曾ては南蛮の船がやってきて、日本と西洋との門戸になっていた口之津、有馬のような街が今は侘しい村や漁村になっているのをみると、その思いは更に深まります。
 島原半島、小浜(おばま)から口之津、原城、島原、そして雲仙、ここはキリシタンの栄光と、キリシタンの試練が、一つ一つ打ち捨てられたまま残っている場所であります。自然はあまりに美しく、人間はあまりに多くの血を流した。訪れる人の心に感動を新たにせずにはいられぬ所であります。

最後は観光案内になりました。序曲を終わります。

<ロータリーの歴史>
1937年昭和12年、7月盧溝橋事件に始まった日中戦争は年とともに拡大して、1940年にはロータリー・クラブに対するその筋からの干渉・圧追が厳しくなり、ロータリーの組織は日本帝国に対する反逆であるとまで極言された。例会には特高警察が来る。卓話は全て検閲、下手をするとしょっ引かれる恐れもある。当事48クラブ2,142名あったロータリー・クラブはやむなく解散致しました。
 処がその大多数のクラブは、東京クラブは水曜クラブ、神戸は木曜会、札幌は職能クラブなどと名を変えて、29のクラブが従来通りの定例会合を継続していたのであります。
 戦前のロータリアンは、まさに身の危険を侵してまでも、あたかも隠れ切支丹のごとく、ロータリー運動を続けた。何が彼らをそこまで燃え上がらせたのか。それはロータリー運動の崇高性、あの高潔な倫理性を忘れることが出来なかった。その中心にあるものは例会なんだよと、会を休む訳には行かなかったのであります。
 ロータリー発生の当初、Back Scraching(背中をかき合う)な裸の付き合いに努力したロータリアンたちは、互いに助け合うことで、お互いの商売が成功するよう協力し合いました。其処にロータリーの『親睦と相互扶助』精神が確立致しました。
 そんな中で、ある職業人から『一生懸命仕事をしても、失敗したり成功したりするのはどうしてか』という疑問が投げかけられた。ロータリーの哲人フレデリック・シェルドンは『厳しい自由競争の中にあって、成功をもたらすものは、サービスである。売り手と買い手の双方に利益がなければ、本当の取引にはならない』と、利己と利他との調和の原理を明快に示し、職業人としてのロータリアンに必要なのは『サービスの心』であることを強調しました。利潤の追求の為には何をやっても良いかというと、やって良いことと悪いことがある。

これを何によって分かつかというと、自分の利益と他人の利益を調和させるにある。何によって調和せしめるかというと、これは天地の理法によって始めて自分の利益と他人の利益の調和が可能になる。すなわち経営者はひたすら天地の理法に耳を傾けて、自分と他人の利益の調和を謀るとき、その経営はある程度の利潤を得て、かつ世のためひとのためになると言うのであります。そして自分の心を高め改善して行く過程の中で、次第に自分の世界が高まって行くと、天地の理法も高い水準において体得出来るようになる。即ち奉仕とは己を高めて行くこと、これが『Service Above Self』であると説いたのであります。
 ロータリーと申しますものは倫理運動で御座います。まず職業奉仕を理解して、自分の職業をロータリー哲学の軌道に乗せ、その成果で、社会奉仕、国際奉仕の活動に参加出来ることを知るために学ぶのが、ロータリーと言う学校であります。従ってクラブでの奉仕活動は、実地訓練でありまして、奉仕活動をするのが目的ではない。奉仕の方法を学ぶのが主眼であります。
 ロータリー・クラブはそれ自身は奉仕団体ではなくて、奉仕実践教育団体であります。
 ロータリーで自己研鑚を積めば、自然に何か世の中のお役に立ちたいと言う奉仕の希望が身につく。これがロータリーの魅力であります。
 東京ロータリークラブに柴 染太郎と言う方がおられました。ジャパンタイムズの社長さんで、米山氏の傍らで1939年7月『日満ロータリー連合会』の設立に尽力された方であります。
 ワシントン軍縮会議が開かれたのは1922年、大正11年2月6日でありました。この会議で英・米・日の三国が五・五・三の保有率でそれぞれ自国の海軍軍備を縮小することになりまして、その中には、日本海海戦で活躍した連合艦隊旗艦『三笠』の、解体廃棄処分される運命が入っておりました。
 大正11年のある日、古い友人である山下ブライアンが芝染太郎を訪ね、横須賀海軍砲術学校長の樺山海軍少将が会いたがっている事を告げました。樺山さんは芝染太郎に『光輝ある歴史を持つ三笠を撃沈させ、むざむざ海底の藻屑として仕舞うのは如何にも残念で口措しい。何とか力を賃して戴けないものか』という相談を持ちかけられた。芝は『安請け合いは出来ないが、一度横須賀に行って見ましょう』と返事を保留し、早速横須賀へ飛んで、三笠に乗って見た。艦橋に上がって羅針盤を撫で、艦内を一巡して日本海海戦に思いを馳せながら、すっかり感激して『三笠を沈めてはいけない』という強い思いに捕らわれた。大正12年5月の海軍記念日に横須賀駅頭に立ち、自ら道行く市民に解体反対の呼びかけをしたが、今更なんだと人々の反応は冷たかった。
 其処で芝は、『いっそ、外国人に呼びかけた方が早いかもしれない』と考え、自分が経営するジャパンタイムズに連載で『三笠を残せ』の論陣を張った。やがてクレメンス校長という共鳴者が現れ、二人で外務省を訪ね、三笠保存を説いたが、小林情報局長の返事は芳しくなかった。しかもその直後、芝は外務省に呼びだされ、このような運動は即、中止するよう注意を受ける始末でありました。日本国民も動かず、政府にも熱意がない。ならば一民間運動者としてやるしかない。世界の世論を巻きを起こそうと、益々熱が人った。
 その年の9月1日、関東大震災が東京を襲いました。平和だった当時の日本人にとって、異常なショックと動揺が走った。4頁目>