皆さんこんにちは。2000年2001年度青少年交換プログラムにおいて市原中央RCにスポンサーでメキシコに派遣して頂き,来年度,06-07年度国際親善奨学生候補の田村陽子です。昨年度から引き続き,今年度も当地区の青少年交換プログラムを終了し,帰国した者による組織である千葉REXの会長も務めおります。現在は東京女子大学の四年に在学しております。
私がロータリーと出会ってから早五年。五年前に青少年交換プログラムの選考試験に受かったあのときが私の人生のターニングポイントでした。どのように私の人生の中で転換点だったのか,今日財団奨学生となり平和学を勉強しにいこうと思い立つまでのこの五年間を簡単に皆さんにお伝と思います。
話は変わりますが,この中でアメリカやカナダに行ったことがある方はいらっしゃいますか?=それではメキシコはいかがでしょうか?同じ大陸にありながら,あまりこぞって旅をしよう!とあまり思われない国。私はそこに高校の2年から3年の一年間交換プログラムで派遣して頂きました。私の滞在していた町,シナロア州マサトランは小さな港町ではありますが,太平洋に面したホテル街,観光地などで一年中賑やかな町でした。生活一般はどうであったかというと,まず家は素足では歩きませんでした。これはただ単に靴を脱ぐ習慣がないからというのではなく,家の中でサソリがいるからです。そもそも留学しようと思ったきっかけが日本以外のことを知りたい!というものだったので,日本らしいという言葉のかけらもないこのような環境に入れた私は幸せだったと思います。
さて,私は親善大使としてメキシコに派遣されたのですが,肝心の交流はどうだったかというと,始めはスペイン語ができず,日本のことを一方的に話そうとし,しかも日本的な感覚で物事を考え,メキシコ人とも日本的に接していた私にとって最初は悩むばかりの日々で,どうすればもっともっと交流ができるかというのが課題でありました。しかし解決は簡単でした。全ての垣根をとり,スペイン語を学ぶ=つまりメキシコの人々に積極的に触れ合い,まずは向こうの人々,向こうの物の考え方から学ぶことでした。まずはその現地の文化を受け入れない人に現地の人は聞く耳を持ってはくれないのです。こうして現地の人との相互的な交流が始まったと思うのです。こう考えるようになってからは自然とメキシコ人の友達もでき,留学生の友達も増え,悩みと言えば,増えていく体重ぐらいになっていきました。現地では学校に通う以外に,暇になる夕方から夜にかけて毎日のように音楽学校で伝統舞踊,ピアノ,ジャズダンス,スペイン語の教室に通いながら忙しい毎日を送っておりました。特にピアノに関しては,小学校の合唱団とコンクールに参加したり,音楽学校のオーケストラ,ヴァイオリンとの演奏,ボランティア団体と貧しい村に行きクリスマスソングをプレゼントしたり,大ホールでソロをやらせてもらったり,しまいには,刑務所内でのコンサートまでやらせていただきました。
また向こうでは日本にいては気付かないものの大切さも気付くことができました。よく人は失って初めてその大切さに気付くといいますが,まさにその通りで,失ってはいませんが,家族から離れて,メキシコの家族に触れ,初めて家族というものの大切さを知ったように思います。また日本でどれだけ自分が不自由なく暮らしていたかなどなど,毎日が小さな発見でいっぱいでした。
長い前置きでしたが,私が青少年交換プログラムでメキシコに行って何よりも大事にしていたのが人との交流です。下は赤ちゃんから上はご年配の方,職業は歌手から刑務所内の人,また国はヨーロッパ,アメリカ,ブラジル等,様々な人に会いました。現地の友達も沢山できましたが,この青少年交換プログラムで同じぐらい大事なのは,同じ時に派遣された他の国からの派遣学生と交流をするということであります。ほとんどの派遣学生にとってはその現地の言葉は外国語であり,もちろん,現地では外国での生活となるわけです。話すきっかけは,おそらく多くの学生がこの言葉から始まります。"How can I say this in your language?' "?Como se dice eso en tuidiolma?'そんなシンプルなフレーズから交流がはじまるんです。スペイン語,場合によっては英語という母国語ではない言葉での意思疎通というのは難しいものではありましたが,どんな人間でもやはり"同じ人"で,年齢、国境が違ってもこんなにもお互いの理解が可能なのだということを肌で感じた一年でありました。これが今の私の将来を方向付けています。つまりこのメキシコが私にとってのターニングポイントだったわけです。
私がメキシコにいっていた2000年から2001年,『パールハーバー』というハリウッド映画が上映されていました。それをドイツの親友でありました,クリスティーナと見に行きました。上映中,ヒットラーや日本の神風特攻隊等の映像が流れ,日本・ドイツ謬悪という強調があったせいか上映中は非常に罪悪感でいっぱいでした。二人で戦争について話し合いました。なぜ戦争をしてしまったのか,どうして戦争になってしまうのか?という話にもなりました。そこが私の現在専攻しようとするテーマの原点でした。国際親善大使として派遣されたメキシコ。私はどんな理由であろうと,メキシコとは戦争をしません。ドイツのクリスもメキシコとは絶対しないでしょうし,日本ともしないでしょう。なぜか?それはその国にかけがえのない人がいるからなんです。メキシコには家族と呼べる人々,友達がいます。ドイツにはクリスがいます。そのような大切な人が住んでいる国と戦争なんて絶対できません。人を知る,交流をする。そして相互の文化を理解する。それが紛争地帯でかけていることなのではないかと思うのです。勿論もっと現実的な問題があると思います。経済,政治的利益,領土問題そのようなことから紛争始まります。しかし一番重要なのは,世論を形成する市民,つまりその睨み合う地域で実際に住んでいる人々だと思いまナ。現在私はイスラエルとパレスチナ和平について勉強をしているのですが,そこでの世論の影響力というのは多大なものがあります。
皆さんが良く知っている例で1996年に、イスラエルのラビン首相が弾丸に倒れました。まさに,同じ血の流れる同胞,ユダヤ系の右翼青年から打たれたのです。これはイスラエル国民にとっても非常に衝撃だったと言われています。ユダヤ人とイスラエル人が隣り合って住むところではいざこざが絶えません。仮に政府レベルで和平合意が達成されても,半世紀以上に渡る紛争は住民の心の中に大きな溝をつくり,ハマスのような武装組織である反対勢力を盛り上げ,武力行使に至り,報復合戦が始まってしまうというのが今までの経緯です。
このように,住民レベルでの和解は和平交渉において非常に大事なのです。おそらく私たちぐらいの年代から上の人たちに,いきなり今まで敵対していた人々,つまりユダヤ人にパレスチナ人を,パレスチナ人にユダヤ人を受け入れうといっても非常に難しいと思います。想像をしてみて下さい,政府同士が和平に達したので今から仲良くして下さいといわれたからといって,自分の親戚,または家族,友達を殺した敵と,いきなり一緒に食事ができるでしょうか?非常に難しいと思いますが不可能ではありません。少しずつ,お互いを知る機会が増えれば,きっとお互いを認めあえる日が来ると思います。そしてこれからを担う子どもたちはどうでしょうか?憎しみをもって生まれてくる子供はいません。子供のころからもしお互いに交流をもち,お互いが人であり,人間であり,友達であるということを理解していたら,大人になったときに殺し合いをするのでしょうか?私はそうは思いません。では,なぜ紛争地帯では,隣人を殺すことができるのでしょうか?それは,お互いを知らないからなのです。相互理解が足りないからなのです。もし,少しでもお互いの事をしり,お互いが同じ人間であるということを理解すれば少なからずとも「殺す」行為には至らないのではないでしょうか?
私が研究しようとしているテーマがまさにこれなのです。「紛争解決システムにおける,住民レベルの和解の重要性」簡単な言葉でいいますと,紛争を終了し,二度と起こさないためにも,住民同士の相互理解,許し合い,相互の信頼醸成が重要だということです。実際,イスラエル国内には平和村とよばれる村がありまして,そこではユダヤ人,パレスチナ人が半分ずっの割合で住んでいます。村の委員会も半分です。学校もありますが,ヘブライ語,アラブ語の両方を学びます。ここでは修学旅行がユダヤ教の礼拝堂のシナゴーグであったり,モスクであったり,お互いの文化,宗教を理解することに重点が置かれた教育を受けます。そして,この村ではユダヤ人とパレスチナ人が武力での衝突なしに共存しています。子どもたちはお互いを理解していっています。このような草の根レベルのアクションが広がり,ここで育った子どもたちが大人になったときに,きっと和平は限りなく可能に近づくものと考え,このようなアクションの一般化,つまり,有効性を研究し,他の地域にも当てはめられるようにするにはどうしたらいいか,あてはめられるのか?というものが,私が財団奨学生としてスペインで勉強したいことです。
お手元にある資料を見てみて下さい。そこには世界地図があります。その中で赤く塗ってあるのは私が知り合った人々がいる地域です。その中の多くの人とは連絡を取り合う仲です。「私のイタリアにいる友達が・・」とか,「ドイツにいる友達が・・」のように話を始めると,多くに人は「世界中に友達がいるんだね,どうして?」と聞きます。そして私はこう答えます。「ロータリーの青少年交換プログラムでメキシコに留学していたから」ここで重要なのはメキシコに留学していたということではありません。ロータリーでいっていたといこところがポイントなのです。ここにいる多くのロータリアンの方々も十分ご存じだと思いますが「ロータリー」というのは国籍のような役割があるんです。どこの外国にいってもロータリーで行ったという共通点があると,すぐ仲良くなります。日本国内でもそうです。私は今帰国生による組織の千葉REXで活動していますが,同じような組織がROTEXという名前で全国にあります。かれらとも「ロータリーで行った」そのことで結ばれている仲なのです。北は北海道,下は九州まで同じ年代の多くのROTEXが世代,派遣国を越え,ロータリーの精神のもと活動しています。何も知り合うのは若者だけではありません。本日このような機会を得て市原RCの会員の皆様と出会えました。選考試験で選ばれてからスポンサー,委員会のロータリアン,現地のロータリアン,またひょんなことから,東京のロータリアン,岩手の盛岡は色々の経緯があり,先日田舎に戻った際に歓迎パーティーのおもてなしも受けました。
現在年間約7千人の交換学生が世界中に派遣されていると伺っています。残念ながら千葉は20年前には20人,10年前には10名以上いた派遣学生も,現在は年度に3~4名程度の派遣になっています。しかし,世界全体でこのような活動が何年も続き,七千人,一万四千人,二万一千人と年々増えていくということは,それだけ,世界を知り,お互いの文化を尊重しあえるような青年が増えていっているといこうことなのです。地理,歴史の授業で友達のいる国が出たときふと思い出したり,たまに電話をしたり,メールを書きあったりそのような関係でもいいのです。それだけでも,それぞれの心の中には,それぞれの国でできた友達とは「戦争はしないようにしよう」という考えが,芽生えています。そのような人々が増えたらどれだけ世界は平和になるのでしょうか?かなり理想主義的な考えかもしれませんが,それがロータリーの理念であり,それがプログラムの意味だと思うのです。この民主主義の広まる世界で,住民のレベルでの平和なくして,世界平和
はないのです。
まだ,私は財団の奨学生候補ということで,だいぶ青少年交換プログラムについて語ってしまいました。しかし,それだけあの一年間が私の人世において大きなものであったかご理解頂けたのではないでしょうか。1999年,高校一年生の冬に追加募集で入った時,それが私の第一の人生のターニングポイントでした。そして,今は財団でも同じような体験ができるだろうと今から楽しみにしております。青少年交換と違うとすれば,それは勉強をすることも目的の一つに入っているということで,来年,どこの国に指定されるかわかりませんが,現地では勉強,交流ともに励んでいきたいと思います。おそらくこれが第2の人生のターニングポイントとなることでしょう。
私のこのような機会をくれたロータリーの皆さんに本当に感謝をします。また私を支えてくれている家族,友達にも同じくありがとうといいたいです。本日はこのような機会を頂きありがとうございました。
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