2005年5月11日 第2024回例会 SAA(司会) 鶴岡会員 会報担当 上條会員 |
例会場&事務局 〒299-01千葉県市原市姉崎584 |
市原RC会長 始関信夫
君が代、奉仕の理想
なし
市原RC会長 始関信夫
季節の変わり目は体調を崩しやすいと申します。今年のゴールデンウイークは長い人は10日間にもなり、いつもの生活とパターンがちがい、お体の方は如何だったでしょうか。
5月8日地区協議会が開催されました。当日は早朝から午後遅くまで参加頂き関係委員の皆さんにはお疲れ様でございました。内容については加藤会長エレクトからお話があると思います。
是非次年度の市原ロータリークラブが充実するために地区での研修を反映して頂きたいと思います。
白鳥ガバナーノミニー、山崎次年度ガバナー補佐、小池地区幹事長におかれましてはすでに次年度に向けて活動に入っておられます。先の長い奉仕活動でありますので、ご自愛されますよう申し上げます。
市原RC 角谷幹事
○ 世界身体障害芸術者協会より絵葉書が届いています。お買い求めいただけますよう。
○ 6/29の最終例会に交換学生のナクラ・クラークさんをお迎えします。
○ NPO法人・更級会:中村 徹さんから講演依頼がきております。17.10.08にご講演をいただくことが理事会で了承されました。
○ 6/8、6/15の会員卓話は新入会員卓話となります。
○ 6/29は市原中央RCと袖ヶ浦RCの会長さんが挨拶にお見えになります。なお、12:00点鐘といたします。
○ 野の花のハイキング用バスの提供につきまして、本日何かしらのご寄付をお願いします。
上條会報委員長:会員名簿原稿をお願いしておりますが、すでに20名の方をHPへアップしまして、本日原稿を10名ほどいただきました。未提出の方は5/18が提出期限となっておりますので、よろしくお願いします。
なお、HP会員名簿には皆様の企業や個人で打ち上げているHPをリンクしたいと思っています。会員同士の知り合いを深めることはロータリーの原点であります。URLをお申し出ください。
三平雑誌委員長:「ロータリーの友」5月号の注目記事
[横組み記事]
・今月は「100周年を迎えたロータリー」と題して特集が組まれています。
・より誠実に 人間らしく 自愛をもって 10P
ビチャイ・ラクタル元RI会長によるガバナーエレクトたちへの講演で、なかなか素晴らしい内容です。是非お読みいただきたい。
・第6回ガバナー座談会 ロータリー財団への貢献 32P
ロータリー財団に多大の貢献をしている日本のロータリーは、今後どのように財団への支援をしていくべきか。出席メンバーに当地区の杉木ガバナーがおられます。
[縦組み記事]
・人体復活 百歳長寿への道 占部賢志 4P
ロータリー百年を祝い、人間百年を願うということで、百歳長寿をいかに達成するか。
・風紋 観世流シテ方能楽師 橋岡久太郎氏 13P
佐倉西RCに所属している名門能楽師の芸と人生。
・「言いたい、聞きたい」の投稿 18P
例会の魅力をどこに求めるか、点鐘を三つ、パソコンメークアップと興味引く話題が取り上げられている。
おめでとうございます。 |
誕生:上條、斉藤(博)、常泉、浜田、吉田、外山会員
結婚:角谷、酒枝、境、鶴岡、宇都宮、外山会員
会員卓話 佐藤政雄会員 「大東亜戦争の体験」 |
大東亜戦争が終戦を迎え60年と大きな節目の年です。世代交代も進み、2世代が活躍していますから終戦も遠くなりました。しかしこの60年の大きな節目に隣国の韓国、北朝鮮、中国は反日・抗日を扇動し、自国の愛国心の高揚とも採れる行事が行われ、わが国は難かしい外交の年を迎えています。
さて大東亜戦争の開戦ですが、昭和16年12月8日ですが当時我国は米国や西欧諸国から石油や資源の経済封鎖を宣言され米国との交渉が難しく、打開が出来ない場合に備えて密かに機動部隊を11月26日南千島のヒトカップ湾へ出航、12月2日北緯41度西経172度付近に位置していました。米国との交渉を打ち切り、武力による解決を決断し、機動部隊にたいし打電。“ニイタカヤマノボレ1208”を受け、機動部隊は荒天の中を南下し昭和16年12月8日未明、真珠湾の米軍に奇襲攻撃を開始、大東亜戦争となりました。同時に東南アジアの連合軍の基地も攻撃し18年1月には大東亜戦争経過図で見ると、日本軍の勢力圏に戦域が拡大しているのが分かります。(写真参照)
私は昭和17年10月15日、海軍に志願し横須賀工機学校に入隊。繰上げ卒業となり1ヶ月半の教育を受けて、12月10日駆逐艦に乗船し輸送船2隻を護衛して南東方面に航海しました。13日の日程で目的地第8艦隊司令部のあるラバール湾に入港しました。当時は我軍の支配下である航空隊や戦艦や輸送船が多数あり、心強かったものです。10日程休養し、その後の任務は前線基地への物資や軍隊の輸送で、夕方出航夜間に到着し完了すると、即刻帰還していましたが、4月に入ると前線から軍隊の引き上げが始りました。当時は転進と命令されていましたが、事実は米軍攻撃により撤退したのです。7月13日深夜コロンバンガラ島で敵の襲撃により上甲板損傷しましたが、自力航行に支障はなくラバールに帰港、その後内地で修理のため古参兵や疾病者を乗せて帰国。私達新兵は横須賀第81警備隊の所属となりラバールから50キロほどのヨーク島の警備につきました。高射砲3基の設置や椰子林を整地し不時着用の滑走路を作るなどの任務でした。18年10月頃になると敵機の空襲が激しく、50機100機と毎日続き、わが軍の反撃も続かず、19年2月には航空隊や艦隊も後方支援に派遣され制空権、制海権は敵軍の支配下となり、ラバールの各軍隊は洞窟に入り敵襲を監視していました。同年8月には非常事態宣言となり、敵軍上陸に備えて1カ月の食料と弾薬を確保する事で、食料の自給体制となり、牧場やバナナ、パイナップル畑を開墾し、サツマイモを作り主食としました。タンパク源に蛙や蛇やデンデン虫などを食べ、海水から塩を採り、椰子実から油や椰子酒などで栄養補給をし、敵襲に備えて海岸線に幅・深さ1メートルの溝を何10メートルとほり、5メートル間隔に一人配置して敵が上陸したら銃で10人殺傷し、戦車が来たら手留弾1発をキャタベラに投げ、1発は生きて捕虜にならず自決せよとの訓練を行い警備に着いていました。昼は敵機の偵察、夜は艦砲に悩まされ、心身共に困敗し栄養失調で体力もなく死を覚悟の日々だつたのです。
20年8月中旬敵襲がまったくなくなりました。和平交渉が成立か、などと噂をしていたら19日に本部から来て、「我が国は無条件降伏をした。今後は豪軍指示に従う」と宣告され、唯呆然自失、今後の行方を案じました。3日ほどして武装解除が指示され海中投棄し、軍は解体して階級章も投棄し、豪軍の指示があるまで待機となりました。
ヨーク島で2ヶ月程待機し豪軍からラバールの捕虜収容所に収監すると命令され、船に乗りガゼルの第一集団に入所しました。当時、ラバール方面には陸軍七万余人海軍三万余人が八ヶ所の収容所に収容されていました。食量は決戦用に保管していた食料や開墾したサツマイモや野菜を食べ、長期駐屯を覚悟していました。豪軍から定期的に豪軍の荷役作業や駐屯部隊の雑用作業の使役が求められ、交代で派遣されました。21年に入ると日本に返されるとの情報があり、順次帰還される通達が来ました。復員船として米艦のリバテリー型上陸用船舶の貸与により集団毎の帰還が決まり、私達のガゼル集団は第2便で21年4月20日乗船が決まり、各自毛布でリックを作り、衣類や靴下、手袋に米や砂糖などを詰め込み荷造を始めました。出港の夜は海岸の寄せくる白波や椰子の木の上に輝く南十字星を始めとする降る様な星空を眺め、椰子酒を呑みながら誰唄うともなく『ラバール小唄』を“さ一らばラバウルよまた来るまでは、しばし別れの涙がにじむ”と夜更けまで唄い、翌朝8時に銅鋸の音を合図に復員船は内地を目指しラバールを後にしました。苦しかった戦陣の3年半の生活や捕虜生活、そして熱帯林や椰子林、周囲の山々とも別れ10日程の航海で5月1日名古屋港に上陸、待ち焦がれた日本大地を踏みました。
多くのご婦人が1人1人にご苦労様でしたと丁寧にタバコに火を付けて頂きました。多くの戦友が戦死、又は戦病死と英霊になりました。私は戦場で生死の岐路を幾度となく彷徨いましたが、運命のなせる業で生き抜いて来ました。あの体験を体し余命を大切に生きていきたいと思っています。
(写真左:S17.4月のラバール湾。軍艦が多く停泊している) (写真右:S58.7月慰霊のためにラバール湾を再訪問)
佐藤(政)会員:思い出深いラバールの話を聞いていただきました。
角谷幹事:5/3青森県の弘前へ桜見物に行きました。桜も満開でしたが、すごい人で駐車場がなくて、降りずに帰ってきました。
会長・幹事:本日、今年度11回目の理事役員会が無事済みました。あと1回ですが、どうぞよろしく。
山崎会員:第3分区Bのガバナー補佐という連絡係の「どさ廻り」が始まりました。
川内会員:酒の席で調子に乗って、新入会員の山本さんに「生命保険に付き合うよ」と言ってしまいました。女房が安心するかと思ったら「そんな金があるなら、家に入れろ」と怒られました。
前々回出席率 87.5%
本日出席 43
本日欠席 13
本日出席率 76.8%
市原RC会長 始関信夫
第11回定例理事役員会(H17.05.11) |
山田会員寄稿
(名古屋万博を訪問して)
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