2004年11月10日
第2000回例会
SAA(司会) 津留会員
会報担当  上條会員

例会場&事務局  〒299-01千葉県市原市姉崎584
 п@0436-61-2245  Mail Address:info@ichihara-rc.com
 会長  始関 信夫      副会長  加藤 利夫

  
幹事  角谷 修     副幹事  千葉 精春

2000回記念例会乾杯:斉藤PDG
1964.6.13に第一回の市原RC例会が開催され、今日2000回の例会を迎えました。益々の発展を祈念して乾杯いたします。

    市原RC 始関会長

  君が代、奉仕の理想




(左より)
袖ヶ浦RC 佐藤信吉会員
小倉照子さん(入会候補者)
高澤豊昭さん(入会候補者)

 会長 始関 信夫

袖ヶ浦RCの佐藤様、ようこそお越し頂きました。小倉様・高澤様には例会を前提としてのお出かけです。どうぞごゆっくりお過ごし下さい。

誕生:加藤(庄)会員

結婚:赤星、上條、夏井、佐藤(勇)、深川、佐川、川内、綾部、紅谷会員

 角谷 幹事

* 11.10定例の理事役員会を行いました。

1. 12月度プログラムについて (別添付資料の通り
2. 次年度役員候補の件
   市原R・C定款第5条第2節及び細則第1条第1節に依り、
   11月17目(水)例会に於いて議長(会長)は会員に対して役員及び理事の指名を求める。
3. 新入会員候補者について
   2名の方の紹介を行います。
4. 義援金募集のお知らせ
   地区より案内がきています。
5. ガバナーノミニー候補者指名について
  2006/07国際ロータリー第790地区ガバナーノミニー
「角井 宏君」(柏RC)(1924.9.8生)
6. 忘年例会オークションについて
   例年通り12月15日(水)に開催されますが、会員皆様への御協力を切にお願いしたいと思います。

* 12月のプログラムが発表になっております。(別ファイル:歴史→スケジュール→2004/05年度、参照)

* 本日、中越震災、台風23号被害の義捐金を社会奉仕委員長がご寄付をお願いします。皆さまの浄財にクラブから追加寄付をして、ガバナー事務所へお送りしたいと思っています。

* 例会変更

市原中央RC 11/9(火)例会 → 例会場を東海大望洋高校、点鐘10:55

   同   11/23例会 休会

   同   11/30例会 12/1(水)市原RCとの合同例会に変更

綾部プログラム委員長:秘湯と紅葉を楽しむ親睦会はいよいよ12,13日と迫ってきました。20名の参加をいただいております。お時間を違えないようにご集合下さい。

藤谷社会奉仕委員長:中越震災、台風23号被害の義捐金寄付を本日お願いします。

会長10/28に地区の職業奉仕委員会セミナーが開催され、小野委員長、白鳥会員、幹事、会長が出席してまいりました。テーマーは「今改めて職業倫理を考える」で佐藤千寿さんの講演を聞いてまいりました。

会長11/1に第3分区Bのゴルフ会が開催され、当クラブより大勢さんの参加をいただきました。

 市原RCの将来を見据えて

始関会長

1964年6月創立以来本日の例会で2000回を迎えます今日の市原ロータリークラブの礎を築いてくださいました、先輩ロータリアンに敬意と感謝を表したいと思います。 私達にとりまして例会は、ロータリー精神を学び、会員同士の友情を広げ、深める活動の基本となる大切な場所であります。今日2000回という一つの節目を迎え、市原クラブが今後どうあるべきかを考える機会としてとらえ、当クラブのただお一人のチャーターメンバーであります酒枝会員はじめ上條・千葉両会員にクラブに対する問題提起あるいは、建設的な提案を限られた少ない時間ではありますが、発表して頂くことといたしました。このフオーラムがクラブの活性化のきっかけになればと思います。

@ 酒枝次郎会員

「ロータリーと侍のこころ」


2000回記念に卓話をさせて頂く事を光栄に思います。ロータリー100年の歴史のうち、わがクラブは40年を閲しました。
富裕紳士のクラブなどと言われた時代から、50年代のロータリーの日本化、60年代の民主化などの歴史を踏んで、今日本のロータリーはやや低迷しているように感じます。日本のクラブ数2,328、会員数103,610人となっています。この数をどのように思うか気になっております。この社会的に道徳的に指導的な存在と言う意味で、江戸時代の侍になぞらえてみました。江戸末期、日本の人口約3000万人のうち武士階級のもの家族を含めて200万人と言われています。実質活動していたものは60万乃至70万人程度ではなかったかと思います。そのなか10万人というと少なくとも100石以上の大身の侍に相当します。
侍は先ず戦士であった事、すべて公務員であった。12世紀武士の地位が固定するとともに、次第に道徳的な規範が確立してき,豊臣、徳川時代所期に熟成された道徳規範が「武士道」と呼ばれている。侍の心。
話が飛ぶが、「BUSHIDO」THE SOUL OF JAPANがアメリカで出版されたのは1899(明治32年)新渡戸稲造(1862〜1933南部藩士)当時、南北戦争後東海岸ではプロテスタンチズム全開のなか資本主義が本格的な発展を示していたアメリカの歴史で最も輝いていたといわれる時代。この本がベストセラーになって読まれたと言う事は、プロテスタンチズムと余程共感するものがあったと言うことである。
1905年2月23目シカゴでポール・ハリス(1868〜)は四人の同士とともに、ロータリーの創立記念目となる集会を行った。
1905年9月5目ポーツマスにて小村寿太郎日露講和会議。これを仲介したテオドール・ルーズベルトは新渡戸の武士道を読んで感動した事がきっかけと言われている。
武士道とは、礼儀・忠誠・信義・名誉・廉恥・尚武・潔白・質素・情愛などの徳目が上げられている。葉隠れでは「武士道とは死ぬ事とみつけたり」
いろいろのタイプの武士もいたであろうが、侍の殆どは貧しさを苦にせず寧ろ誇りとして、社会の節度のなか自己を厳しく律する高い精神性を持って生きることが侍のこころの真髄であった。
侍の心がそのほかの階層の人々に評価され共感を得ていた事は、そのすぐれた人間性の証しともいえる。忠臣蔵、菅原伝授手習鑑など侍社会を主題にした演劇に庶民が泣いたり笑ったりすることは、国民全体の精神生活の高さを示している。
江戸初期から民間には、鈴木正三(1579〜1655)、石田梅岩(石門心学1685〜1655)に代表されるような指導者が全国的に,勤勉・自己規制の教育が広がっていた。ある意味ではマックスウェルの資本主義の前提は、目本では江戸・明治初期に出来ていたのでは・・とにかく侍のこころは既に目本人全てのものになっていた。新渡戸が武士道の副題に日本の魂と書いた所以と思う。
1868年江戸時代の侍は全て公務員であった。その侍が侍の旧政権幕府を倒し、侍の新政府を作った。本来の国民国家を作るため1871年廃藩置県を行った。これに不満を持った侍の反乱(佐賀の乱など)があり、1877年西南戦争で侍の軍は新政府の農民兵に敗退して、侍は消えた。
明治にとって侍の居なくなった事は余程都合の悪い事であったか、新しく侍を作ろうとした。軍人勅諭はその5年後、13年後に教育勅語が出されている。考え様によっては,明治以後昭和20年1945年までの目本の教育は一度消滅した侍を育てようとしたともいえる。特に陸海軍の諸学校の教育はインスタント侍の養生所であった。これは何処かで道を間違えたともいえる。
今の日本人の心のうちには"侍のこころ"は微かながら流れていると思いたい。
ポール・ハリスはロータリーの理想で「古くから存在する道徳観念の現代における実践」を強調している。

さて百石以上の御大身の侍に相当するロータリアン,これからのロータリーを活性化する為に今渡「武士道」をお読みになってはいかが。

軍人に賜りたる勅諭 (1882 明治15年)
一、軍人は礼儀を正しくすべし
一、軍人は忠節を尽くすを本分とすべし
一、軍人は武勇を尊ぶべし
一、軍人は信義を重んずべし
一、軍人は質素を旨とすべし

教育に関する勅語の徳目  (1890明治23年)

父母に孝に 兄弟友に 夫婦相和し 朋友相信じ 恭倹己を持し 博愛衆に及ぼし
学を修め業を習い以って知能を啓発し徳器を成就し 進んで公益を広め世務を開き
常に国憲を重んじ 国法に遵い 一旦綾急あれば義勇公に奉じ
之を古今に通じて謬らず 之を中外に施して悖らず

五省

一、至誠に悖るなかりしか
一、言行に恥ずるなかりしか
一、気力に欠くるなかりしか
一、努力に憾みなかりしか
一、不精に亘るなかりしか

A 上條 優雄 会員


「市原RC国際奉仕活動に一言」

2000回記念例会に発言のチャンスをいただきまして、ありがとうございます。国際奉仕について私見を述べさせていただきます。

市原RCの国際奉仕活動と言えば、PJRCとの姉妹クラブ提携でしょう。これは1974/75年度・小出会長の時代に提携したのですから、30年の長い交流が継続されていることになります。海外のクラブと姉妹提携を結ぶケースは多々あるのだと思いますが、4〜7年程度で交流頻度が薄れ、有名無実の姉妹提携になる場合が多いように聞いています。それを30年もの間、続けてきたのですから、胸を張って誇れる奉仕活動であり、同時に両クラブのこのプログラムを推進した先人達に感謝の念を持たねばなりません。小出年度より8年の後、1982/83年度・海上会長のときにPJRCを訪問しておりますが、海上さんはそのことを心配され、事前に理事役員会で相談され、お互いのインターアクトクラブ学生を隔年で交換することをPJ側に提案されたのです。子供達の交換は翌年の1983/84田丸年度から実現しましたから、このプログラムも21年の歴史があります。そして子供達は確実に両クラブのかすがいとなってくれています。この子供達がいなければ、今日までの姉妹クラブ活動は継続されていなかったかもしれません。

この中にも、PJメンバーに友人を持たれている方、自分の子供同様に来日学生を思っている方が沢山おいでのことと思います。それはホストしホストされ、家族ぐるみで交流している中から出来た自然な人間関係だったでしょうし、その人々は真の国際人と言ってよい方々です。

これも古い話になりますが、何かの席で小出元会長が言われた一言を私は忘れることができません。「真の国際人ってどうゆう人を言うのかな? 外国語がしゃべれるとか、数多く海外旅行をしているとか、海外のお国事情に長けているとか、いうことでは無いよね。真の国際人とは一人で良いから、海外に真の友人を持っている人のことを言うのだと思う。」含蓄のある一言だと思います。せっかくRCが交流のチャンスを作ってくれているのですから、皆さん一人一人がPJRCに友人を積極的に作ってくれるように祈念しています。その一本一本の糸が綾になって、大きなロープとなり姉妹クラブ活動を益々活発にしていくものと信じます。

PJメンバーの一人が私に言った一言があります。「もしマレーシアと日本に気まずい問題でも発生したら、私たちの手で解決していこう。この友情があれば可能だね」 国家間の問題を個人がどうにも出来るはずが無いとお思いでしょうが、これは現実のものとなったのです。皆さんも覚えているでしょうが、赤軍派がクアラルンプールのアメリカ大使館を武力で占拠したことがありました。市原RCはすぐに手紙を出し、この事件は一部の過激派が引き起こしたもので、決して日本人の意とするところではないことを説明しながら、マレーシアの皆さまに陳謝の意を表し、見舞金を添えてPJRCに送ったのです。PJでは、この詫び状を新聞社に持ち込み、全土に報道されることになり、大変な反響を起こしました。そのことがPJRCの歴史書に記録となって残っています。今となっては市原RCでは知らない方もおいででしょうが、PJRCでは誰もが知っている話なのです。

市原RCの中で、PJRCとの交流は「細く長く」とおっしゃる方がおります。「長く」は当然のことで、「細く」は緊縮財政の中で、学生交換プログラムや相互訪問プログラムに極力経費を掛けないように、という意味に解釈していました。しかし、昨今事情は少し違うように思うのです。今年は学生派遣の年でしたが、中止となりましたことは誠に残念です。京葉高校のインターアクターに希望者が無いということなら、ロータリアンの子弟の中からでも選抜すべきだったと思います。その場合はクラブ予算を掛けずに派遣できるわけですから。始関年度理事会にて決定したことに異論を申し上げるつもりはありません。しかし、このプログラムを続ける限り、この交換学生と経費の問題は、今多いに議論し、会員のコンセンサスをまとめる好機と思うからです。「細く長く」ではなく、「太く長く、クラブ予算に無理の無いよう」ではないでしょうか。

「手続要覧」には次のように書かれています。「年会費はクラブの運営に充当されるべきもので、奉仕活動に費やすことは好ましくない。奉仕活動費用は任意の寄付により賄われるべきだ。」 市原RCはこの点で少し外れた部分があります。それは市原RCの長い歴史に裏づけされているものと思われます。以前は京葉工業地帯の大企業の工場長さんや役員の方が、多く当クラブの会員でした。何か奉仕活動を行うたびに寄付をお願いするのは、大手企業関係者にとってはやりにくい面がり、そこで年会費としてまとめて徴収してくれ、という要望があったのです。ですから市原RCは寄付を集める能力に疎いところがあるのだと思うのです。寄付を集めるには、その奉仕活動の指揮を取る会員が、如何に有効なプログラムなのかを会員皆さまに情熱を込めて訴えながら、同時に会員間の和がなければ、目的を達することは出来ないからです。40年の歴史の中で付けた習慣です。そう簡単には修正することはできないでしょう。始関会長もこの点は意識されているのでしょうか、今年の地区大会登録料は個人負担7千円、クラブ負担5千円と理事会決定されていました。以前よりは個人負担が増えております。将来は100%個人負担すべきものでしょうし、それでも地区大会に多くの人が出席するようなロータリーにせねばなりません。そこが難しいところで、徐々に理想に近づけていきましょう。

本題に戻りますが、ですからPJRCへの派遣学生の費用も、旅行保険代ぐらいはクラブで持ち、他の費用はロータリアン個人個人からの寄付で賄われるということで良いのではないでしょうか。そうすればクラブ予算に影響はなくなります。

また、派遣学生の人選にしても、出来るだけ能力のある、将来地域社会の役に立つ子供を第一義に選抜すべきであって、インターアクターに固守する必要はないと思うのです。インターアクターは地域社会に奉仕の心を持つ子供達ですから、それはひとつのアドバンテージですが、絶対条件ではないと思います。むしろロータリアンの子弟や運営企業の従業員の子弟から選抜しても良いのではないでしょうか。その場合は当然ながら関係ロータリアンが負担してくれるでしょうし、またインターアクターや一般の中から選んだとしても、優れた子供だったら、“よし、その子の旅費は俺が持つ”というロータリアンがきっといるのだと思うのです。それこそ真のロータリーであり、一歩一歩理想に近づいていかねばなりません。

受入も同様です。ウエルカムパーティーの費用程度はクラブ負担とし、他の滞在期間中の各種プログラムに、自費でスポンサーになってくれるロータリアンを探し出して、そこに多額の個人負担や時間を提供してくれた人達に、皆で感謝の意を表するようなクラブ形態を作っていくことが必要と考えます。

寄付は強請したり、金額を均等指定したりすべきではないでしょう。それは寄付する人が、その行為に満足して喜びを感じるものだからです。

今日申し上げましたことは、私の私見です。反論をお持ちの方もおいででしょう。その意見を是非とも私に直接お聞かせ下さい。その議論の中から、より熟成したロータリー活動が誕生すると思っています。


B 千葉 精春会員

「入会5年で感じたこと」

市原RCの例会2000回にあたり、入会歴5年未満を代表して卓話をするように会長・幹事さんからの命を受けましたので、しばらくの間ご傾聴をお願い致します。

私は入会5年目を迎えておりますが、入会するまでロータリーについての知識は全くありませんでした。ロータリークラブという名前は聞いたことはありますが、それがどんな目的をもった組織、団体なのかは全く存じませんでした。そして、まだまだロータリーの理念については、研鑽中ですので、皆様の前でお話できる知識、情報もありません。 そこで、入会後現在まで感じていることを少しお話してみようと思います。

入会して、ロータリーにはさまざまな規定があることを知りました。例えば、入会時の詳細な項目にわたっての選考基準及びそれに次ぐ既存会員の原則全員承認、例会出席義務、更に1業種1人(現在は10%に緩和されておりますが)等を知り、これはかなり崇高な組織であるとの認識をもちました。しかし、私の知る限りこれらは「机上のきまり」だけで、何ら行使されたことはありません。これはすべてクラブの運営上、即ち財政上の問題にて、ないがしろにされてきている、せざるを得ないのは十分承知の上、理解している所です。しかしこれらを考えても、ロータリー100年の歴史の中において現在は衰退の状況をたどっていると思うのは、入会歴の浅い僕にも一目瞭然です。

これらの規定があるにもかかわらず、会の健全な運営の為に、すなわち入会促進、退会防止の為に、入会前にロータリーの情報を伝達して、ゆえに賛同した者を入会させるという手順を踏まず、又入会後は出席規定に達しなくても何ら出席勧告をしないというのが現状です。本来ならば例会に出席して多くの会員とそれぞれの職業を通してのお互いの社会への奉仕の精神を吸収し合い、社会に還元実践するという目的の例会であるべきと認識しております。しかし実際は例会の場においては、気の合った会員の方同士が同じテーブルに座しているのが現状ではないかと思います。何か単なる親睦団体のような気がしてなりません。

一度、会の運営をスリム化(財政的に)して、本来の崇高な「ロータリーの網領」即ち、目的に向かって、このような時期だからこそ考え直す必要があるのではないかと存じます。 紙面の都合上この位にさせて頂きます。

当市原RCが今後2500回(10年後)、3000回(20年後)に向かって益々発展することを祈念して止みません。私もそれまで頑張りたいと思います。


山崎邦夫会員:年を取ったものです。孫娘が東邦大学薬学部に推薦入学いたしました。

斉藤 博会員:例会2000回を記念して!

千葉精春会員2000回例会おめでとうございます。あまり身にならない卓話にて失礼します。

加藤庄司会員:佐藤勇会員、無理なお願いにもかかわらず気持ちよく引き受けて頂きまして、これで我が店も安泰です。

三木敏靖会員:過日第3分区Bゴルフ、市原RC団体戦5番目に名を連ねました。といっても当クラブは5人しかいなかったということです。足を引っ張ってすみません。

川内信一会員:研修でハワイへ行ってきました。タダ旅行が悪かったのか、日頃の行いが悪かったのか、すべて雨でした。おみやげは市原市のゴミ袋です。お持ち帰りください。

会長・幹事:酒枝、上條、千葉各会員には貴重なご意見をご発表くださいましてありがとうございます。今後に活かすよう努力いたします。


前回確定   100.0%
本日出席者  38名
本日欠席者   9名
本日出席率  80.9%

 市原RC 始関会長 

吉田 正さんより40周年記念誌の礼状(加藤庄司前会長宛)(2004.11.3)

40周年記念誌いただきました。会そのものも立派でしたし、記念誌におさめられた斉藤PGの名スピーチとすばらしい養老川西広板羽目堰の表紙写真、これだけでも価値ある社会誌として長く語りつがれることでしょう。我が家の「永久保存指定」として早速登録いたしましたことを茲にご報告し、お礼の言葉といたします。

末筆ながら酒枝実行委員長様にもよろしくお伝え下さいますように。



95回国際ロータリー国際会議
講演より
                中田武仁
                                     日本国、大阪市
2004年5月
私は、カンボディアに平和な民主主義国家建設のために国連のボランティアとして二十五年三ヶ月の命を捧げて殉職した中田厚仁の父親、中田武仁です。厚仁の死後今日まで私たち家族は世界中の多数の方から温かい激励の言葉を頂きました。

皆様のお陰で、私たちは本当に励まされました。特に大阪南ロータリークラブのお陰で厚仁はロータリー財団親善奨学生(1989―90)に選ばれ米国アイオワ州のグリンネル大学に勉強の機会を与えられ、そこで啓発されて生涯のコースを選びました。

1993年にRI会長は“ロータリー精神を最善の形で発揮した人”として彼を特別表彰して頂きました。私は皆様が厚仁に示されたご厚情に衷心からお礼を申し上げます。

1992早春の土曜日の午後、私たち家族は一緒にお茶を飲んでいました。その時に厚仁が申しました。“私は国連のボランティアとしてカンボジアで働いて平和な民主主義国家建設の仕事をしたい”。

厚仁は子供の時から国際的な仕事を夢見ていたことを私たちは知っていました。しかし私には“国連のために働く”とは例えばニューヨークの国連ビルに勤務する国際的な職員を考えていました。ところが厚仁はカンボディア人と手を携えて現地で活動的により現実的な業務を遂行するボランティアとして働くことを切実に要望していました。
カンボヂア国は元来彼らのものです。米は国民の消費量の二倍の収穫があり、西北部に東南アジア最大の湖があり約七百六十種の魚が無尽蔵に容易に獲れ、豊かで、平和な美しい国でした。

アンコールワットの遺跡はユネスコの世界遺産として登録されています。それは西洋のピラミッドと同様に、将来の世代に引き継がれるべき代替不能の人類の文化財と見なされています。人々の顔の優しい微笑みは“クメール人の微笑”と呼ばれ世界中の人から賞賛されていました。それは本当に平和でこの世とは思われない世界でした。ところが、カンボディアは複雑な国際情勢に巻き込まれて二十年間にわたり民族間の絶え間なき戦闘が行はれ人々は疲弊しました。

彼らはお互いに“戦争を止めて暴力でなく我々の手で私たちの欲する国を作ろう”とお互いに誓い合っていたが、1970年台に多数のカンボディア人が或るカンボディア人に殺戮されたため、知識層が減少し、お金もありません。そこで、彼らは国連に協力を要請しました。

厚仁がカンボディアに巻き込まれた背景には二つの強い要因がありました。

一つは私の仕事が国際的なものでした。私たち一家は欧州のポーランドに住んでいました。1977年11月、厚仁が小学校四年生の時、国内の短期旅行である場所−アウシュビッツを訪れました。

ヒットラーが統率したナチは彼らの意思に反する人間を皆殺しにしました。そこで私たちが見たのは、人類が手にした智識を反人道的目的に使用したため起きた言葉では尽くせない究極の悲劇の見本でした。現場を見た後で、厚仁は私に、“人類間の紛争はどうしたら無くすことができるのだろうか?”と何度も聞きました。彼は幼かったが彼なりに真剣に考え詰めていたのでしょう。小学校卒業の時に“将来の夢”と題した同級生との寄せ書きに彼は“国連で働き、将来は大使になりたい”と書いていました。国連の旗―それは私たちが見上げる雲の無い綺麗な青空の色です。地球は平和を象徴するオリーブの枝で囲まれています。地球の上には地図の上でよく見られる人類を差別するようなものは何も記されていません。この地球上のすべての人々が安らかな環境で人類の尊厳を持って平等に暮らし、平和な生涯をおくれるような社会を厚仁は夢見ていたのでしょうか? しかし、私たち家族が1977年7月にポーランドのアウシュビッツで見た出来事は昔物語ではなかったのです。私たちが見聞したのと全く同じ出来事がカンボディアでカンボディア人同士の間で起きていたのです。“カンボディア人は暴力でなく彼ら自身で国の再建をねがっています。私は彼らを助けねばなりません。”

二つ目の要因は厚仁がロータリー財団親善奨学生としてグリンネル大学在学中に、或る教授が彼に話したことでした。“貴方は勿論この大学に何かを求めてきたと私は思います。しかしながら、大学も又貴方を必要としているのです。将来貴方がなんらかの理由で落ち込んだ時には、貴方は必要とされていることを、どうぞ忘れないで下さい”とこの教授は彼に言いました。この“貴方は必要とされている”との言葉が、一人の人間として心の支えを懸命に求めていた厚仁を鼓舞し、励まし、支えました。

“今こそ、私の時間、情熱とエネルギーを使ってカンボヂアの人たちの願望の実現を助ける時が来たのです”。

しかし、1993年4月8日に、法律と秩序を心から信じていた厚仁は運命の仕業で二十五歳の生涯を閉じました。彼が信じ、求め、遣り残したことに対して私はよくやったと褒めてやりたいと思います。私に与えられた責任は二人分の有益な人生を送ることです−厚仁の命と私の余生です。人類愛の未来と人類の尊厳を信じて私の余生を誇りをもって、正しく清らかなものにしたいとねがっています。

この頃は人間の命の尊いことを否定する人は誰もいません。ところが、心の底では、尊いのは自分の命だけだと誰しも思っているのではないでしょうか?

息子の遺志を継いで、私は国連ボランティアの名誉大使になりました。今までに五十以上の国を訪れ、現場で活躍している多くのボランティアの話を聞きました。“私たちは出来るだけ多くの命を救い人々の苦しみを和らげるために此処にいるんだということを毎日自分に言い聞かせています。”人生には二つの生き方があるのでしょうか−生き甲斐のある人生と生き甲斐のない人生? 私は皆さんに次のことを、誇りを持って銘記し決してお忘れにならないよう特にお願いします。生涯平和に暮らしたいという地球上の人類の権利が暴力により蹂躙されている時代に、この権利を守るために努力し、世のなかで彼にとって最も貴重な一つしかない自分の命を犠牲にした一人の“世界市民”がいたことです。

親愛なるロータリークラブの会員の皆さん、来年、創設百周年をお祝いになるにあたって、どうぞ“私たちは皆が皆、他の人から必要とされている”ということを決してお忘れにならないようお願いします。
ご静聴有難うございました。


RI website)

2004-06-15

(文責   RJW委員会)
(翻訳 : RJW翻訳委員 東 昭二)