お互いの生活の交流を図って参りますと、自然体の中からボケの程度がだんだんと良い状態になってくる。人間というものは、対等な心の交流が非常に大事なんでありまして、ロータリーの親睦論と云うものもその点に着眼したものでございます。平等社会意識,平等と言うのは皆一緒に扱うという意味ではなくて、同じジャンルgenreの人を、同じジャンルの人として交流の場を設営して、そこで食事をする、お茶を飲む、話をする機会を作る、こういうやり方を取ることが人間の進歩にとって、非常に大事な事だと云うことなんであります。ロータリーの親睦論は、対等社会における人々の、異なったアイデアの交流を保証するということで、この考え方で地域社会の二一ドneedに合わせて行動を起こすと、これは社会奉仕になるし、また国と国との間では国際社会が出来て、それに物理的な技術の進歩が伴いまして、大変効率が良くなるのでございます。奉仕の実践論の中では、社会奉仕にしろ、国際奉仕、職業奉仕でも、常に親睦論が根底にありまして、親睦論の骨格をなすものは、定款細則論であります。倫理的に見ると親睦、法律的に見ると定款細則と、こうなるわけであります。しかし「定款細則に従って」と申しましても、定款細則は親睦論をもって、温かい心をもった解釈でなければならない。これが中核部分で、これを社会奉仕、国際奉仕と外に向かって広げて行くextendすると言う、そういうものの考え方であります。人間はやはりグループをもって集まりますから、その時に一番小さな単位は血族即ち血の通った人達の小さなサークルcircleは家庭family、個人生活personal lifeであります。それから近隣社会local communityがあります。其の次に出てくるのが、国家という物凄い行政権をもったcommunityが出て参ります。これを作ったのは国民ですから、故に国民国家と申します。Nationa1、natio、ナティオと云うのはラテン語で国民の事です。そして国家の機能はと申しますと 
1)国家は秩序維持を致します〜
治安権police powerと申します。これは国内の秩序を維持する為に、多少の武装をして、悪い奴がいたら捕まえて裁判にかける。9月11日を思い起こしてください。皆が仕事をしている貿易センタービルに、飛行機が飛び込む。万事中立に見るのがロータリーの立場ですが、やられた方の身になって見ると「このやろう、こんなことは二度と起らないようやっつけてやる」。感情が炎となって盛り上がるのです。殴られたから殴ってやれ。こういう闘争を我々は、繰り返さざるを得なかったわけで、中東情勢はヤシン氏が暗殺されの危機に瀕して居ります。勝った者が正義、負けたものが間違いです。ですから弱肉強食、強いものが勝ち、弱いものは負ける。これは正に仇討ちの繰り返しで、親子代々受け継いで仇討をやる例もございました。これでは際限がないんで、「そういうことはいいかげんで止めようじゃないか」と

言い出したのが、14世紀リチャード二世で、イギリスは、国家の法律をもって「私闘の禁止の原則」を制定しました。対立が無制限な形で世の中に跋扈いたしますると、社会の秩序が乱れて、小さな戦争状態になります。このような事態が起きたときに、それを裁ける者は、高度な専門知識をもった人でなければならない。この専門家のことを裁判官と申します。.だから裁判所の判決によって決めなさいと言うのです。こうして国家は秩序維持を致します。

第二に国は
2・外敵の侵入を守る。防衛権defense powerと申しまして、外敵が来たら民族の存亡にか
 かっておりますから、敵を殲滅する。
3・福祉の増進・solicit welfare 年金・公衆衛生この三つです。
これらは国民から委託を受けておりまして、最高・絶対の権力団体の事を国家と申します。30年戦役が終わり、ドイツ・フランス・スェーデンなどの諸国間で結ばれた、ウエストファリアWestphalia条約によって出来た国民国家、17世紀に国民が造ったのです。ロータリーは親睦団体です。国家は権利と義務によってビシッと決められております。これはロータリーの親睦概念とは相入れないものですから、ロータリーには国家に対する奉仕と云う概念は御座いません。先にも申しました通り、正義は感情であるがゆえに、正義の繰り返しが秩序の分断を繰り返し起こしますので、これを禁止を致しました。そしてどうにも我慢がならなかったら、裁判所に打って出なさい。法律は中立ですから、中立の立場から、どちらが正しいかを 申し述べるであろうと言うことなのです。処がこの原則は、国民国家の中では適応されます。しかし国と国との間で適応する事が出来ないのです。近代社会においては国際間の諸問題と言うものが起こってまいります。その問題点というのは二つありまして、一つは力の闘争、二つ目は貧富の格差です。この問題はどうしても、国際間に解決する法はないのであります。

ロータリーの国際奉仕〜前置きはこのくらいにいたしまして、次はロータリーは、国際奉仕の実践として、どのようなアプローチの仕方があるかを考えて見る必要があろうかと思います。国際ロータリーは、口を開けばロータリ〜財団に寄付を要請致しますが、果たしてそれだけでよいのかどうか。国際間の諸問題に対して、それにはそれなりの機関が動いておりますし、やはりロータリアンは、親睦論の立場からも主体的に、それぞれに対する対応は持っていなければならない。筋をもって物を考えて、協力すべきは協力し、そうでないものは協力しなくてもよいということの認識が必要と存じます。3頁目>