皆様こんにちわ。昨年の忘年会は、斉藤先生と躍らせて頂きました、杵屋佐登福と申します。私は当初木更津芸者(半玉)で、お店に出ましたが、その後長唄を勉強するために東京に出ることになりました。20年ばかり木更津を留守にしていた間に木更津は本当に変わってしまいました。
昔軒を連ねて繁盛していた木更津銀座商店街はシャッター通りとなり。見る影もありません。勿論、三味の音など聞こえることもありません。 芸者衆も少なくなりました。古くは江戸時代から港町として栄え、夜中まで花柳界の賑わいが町に溢れていたそうです。あまりの賑やかさをお役人にとがめられたおり、「あれは狸が浮かれて騒いでいるのです!」と言ったのが『證城寺の狸囃子』の話に継がったと聞いております。
昭和11年には海軍航空隊が出来、軍都として繁栄し、100人もの芸者衆がいたと言われています。 戦後は昭和30年代に八幡製鉄(現新日鐵)の進出に伴い企業からの人で3回目の繁栄を迎えました。 最近では折角東京湾横断道路(アクアライン)は出来たのですが通過点と成り下がっています。しかしそんな中、木更津富士屋ホテルさんで「木更津情緒を楽しむ会」を主催され、地域興しを始められました、そこで微力ながらお座敷芸を披露することとなり大
変好評を得ております。そこで少しでも地元のためになれば良いと言う想いで「木更津八景」という長唄を作曲しCDとして発表することとなりました。詩の方は古くからあるのですが、皆様の記憶から消えてしまっている物です。お富、与三郎の物語そして木更津甚句と木更津をもう一度元気な町にしたいと思います。是非皆さんのご協力を・・・。
本日は三味線を持って参りましたので、木更津甚句、木更津八景をお聞き下さい。
「アア木更津照るとも お江戸は曇れ かわいお方が ヤッサイモッサイ ヤレコリャ ドッコイ コリャ コーリャ 日にやける」 この唄は安政年間に江戸落語界にあった木更津亭柳勢という人が高座で唄ったのが最初で、一時は江戸界隈で大流行したが、時代の流れの中で忘れ去られようとしていた。わずかに南片町の料理店・松川楼の女主人・露崎せきがそらんじていて、お抱えの芸者らに教えていた。
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後世に伝えるためには色々な人の努力と数々の幸運があるもののようです。その中の芸者の一人(本名小野きく)が上京して若福と名乗って売れっ子となった。若福は政治芸者と言われるほど原敬など政客にもてはやされていた、という。そこで、かつて覚えた「木更津甚句」を望まれるまま唄っているうち、再び全国的に有名になったという。それを当時の町長・伊藤勇吉が地域発展のため、若福を木更津に招き、鳥居崎寶屋別館で花街の人々を中心に講習会を開き、甚句を伝授したものです。
木更津亭柳勢は生粋の木更津っ子、生まれは弁天町(今の桜井地区)に代々菓子種の製造卸業を営んでいた江ノ島屋半五郎の長男子之吉であった。生来の道楽者で家を捨てて江戸に出て、当時名うての人情噺家三代目麗々亭柳橋(後の春錦亭柳桜)の弟子となった。しかし、師匠の愛妾と意気投合したところから破門され、江戸朱引き内の出演を禁じられた。そこで、やむなく本所深川辺の場末席亭にでているうち、不治の病に冒され、ついに郷里木更津に引退して伯母にあたる同町内の分家江ノ島屋−管野氏−に世話になり、老夫婦の親切な看護のもとに慶応3年5月25日、40歳で死去した。柳勢臨終の枕下に残した品は紙入れ(高座使用)1個、小田原提灯(寄席から寄席へのかけもち用)1張のみであったという。
「木更津八景」〜瀬田の夕照、三井の晩鐘などで知られる有名な近江八景をもじったのか、木更津にも花街全盛の頃の常磐津の唄の文句に「木更津八景」の歌詞があります。それを以下に挙げますと、「鳥居崎帰帆(矢橋の帰帆)」「峰の薬師の晴嵐(粟津の晴嵐)」「畔戸の落雁(堅田の落雁)」「恋の森の春雪(比良の暮雪)」「善光寺の晩鐘(三井の晩鐘)」「祥雲寺山の秋月(石山の秋月)」「矢那川の夜雨(唐崎の夜雨)」「長楽寺の夕照(瀬田の夕照)」の八景です。木更津は、かっては江戸から一茶、広重などなどの文人墨客が伍大力船に乗りあるいは徒歩でしばしば訪れた由緒ある上総の文化中心都市でありました。しかし時代は変わり現在の木更津は旧家名家は没落し、花街から音曲の音も絶え、同様に「木更津八景」の大方は、昔の面影すら見出せません。
7.ニコニコボックス
* 小池会員〜第27回ライラ研修セミナーに我が医院の2人の歯科衛生士を派遣させて頂きました。苦しさの中にも楽しみ、一回り大きくなって帰ってきました。ロータリーの皆様に感謝の念を抱いております。
8.出席報告
*会員 総数:47名
*本日出席者:37名
*本日欠席者:10名
*本日出席率:78.7%
*前々回出席率:100%
9.点鐘 会長 加藤 庄司
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