「移動例会・上総国分尼寺」
第1903回移動例会として、平成14年11月3日(日)に「更級日記」が上演されました。

※更科日記の概略
 菅原孝標女が著した『更級日記』。この著書の書き出しは、父孝標が上総介の任期を終え任国より帰京したときの旅の思い出から始まっている。この旅立ちの地が上総です。日本古典文学を代表する『更級日記』に市原が登場しているのである。

更級日記〜菅原孝標女(すがわらたかすえのむすめ)(寛弘5年1008年〜康平2年1059年以降)

菅原孝標女が生まれた寛弘5年というと、有名な『源氏物語』著者紫式部がお仕えした、藤壺中宮彰子に親王が降誕、藤原道長によって後宮対策が地に着いた時期。摂関政治で中学教科書でも暗記の藤原道長の時代。菅原孝標は右大臣道真の五世の末裔。天延元年(973)の出生。春宮蔵人など順調に昇格するも、途中で記録から姿を消す。長い散位を経て60歳で常陸介として赴任し、上京後は早々と隠退。菅原孝標と藤原倫寧の娘の間に娘として生まれたのが菅原孝標女。母の藤原倫寧の娘は『蜻蛉日記』の作者右大将道綱母の異母妹にあたる。菅原孝標女は9歳から13歳の少女期を、父の任国上総の地に育った。環境的に文学的な素養があり、父は地方官として東国に任官します、そして書き出しは上総の国府より京の都へ帰国するところから始まります。京に流行る、まだ見ぬ物語の世界(『源氏物語』等)に思いを募らせる日々を送り、等身大の薬師如来像を礼拝し、ひたすら京に戻る日を祈るのであった。そして寛仁4年(1020)9月、13歳の彼女に上京の日が訪れる。京に帰ってからは源氏物語の五十四帖を手に入れたものの、

乳母の死、それから彼女17才のとき仲の良かった姉が死に、姉の残した二人の子を育てながら年老いていく両親と共に寂しく暮していきます。22才の時に後朱雀天皇の第3皇女の祐子内親王のもとに宮仕えをし、25才の時に父は常陸介に任命され、任地に赴き、4年後に帰国。隠居し、母は尼になりました。そして33才の時に橘俊通と結婚し、二人の子の母となります。もう文学少女ではなく、夫の出世と子供の成長を願って寺参りばかりします。しかし夫が信濃守として帰国後に病死。作者が47才位です。そして彼女51才の時の夢に「夢の仏像」が書かれています。そして彼女の甥や子供達が1人立ちして家を出ていった後、1人寂しく暮している所で、更級日記は終わっています。

 
御物本「更級日記」藤原定家筆(書出し部分)

■更級日記と菅原孝標女
 更級日記の書き出しに「あづまぢのはて」とあるように、孝標女にとって上総の国は最果ての地に思われました。しかし、当時この地は国府が置かれ、地方における政治・経済の中心地でした。2頁目>