各メーカーではサービス部門が行き届かない、行政では維待管理が大変だ・・等があり民間業者を育成し、委託をしたいとの話がありました。たまたま会社で島津製作所と接触をもっていたのと、行政の担当者と接触があったので、行政の窓口とメーカーと私が同席し、会社を立ち上げる事になり、私は会社を辞め6名程の社員を集め、メーカーに研修に出して一応体制を整え、メーカーと同行しての企業への測定機の営業を始めました。
 一方、行政でも環境庁が各市庁舎に監視室を設置したので、これの維持管理を受託した。又、各県や市でも設置が始まり汚染物質の硫黄酸化物、窒素酸化物、オキシダント、一酸化炭素、浮遊粉塵、気象計等の常時監視装置により調査がはじまり、京浜地区から京葉地区と範囲が拡大してきました。一方、水質汚濁測定装置も開発され河川の監視も始められ、多摩川、鶴見川、帷子川、大岡川など各所の維持管理を受託しました。私は千葉県下への市や町の業務が多くなったこともあり環境の良い市原に転居してきました。当初から見ると大気汚染や水質汚濁も大分改善されました。排出ガスも石炭ガスから電気に変わり、生活排出は下水処理施設の充実により大分、改善されました。
 今、問題視されているのは自動車排ガスと東京湾の海水汚濁で水質総量規制が明年4月から実施されます。1日400t以上の排出口には全りん、全窒素、COD等の自動測定装置の設置が求められています。当社も島津製品の営業をやり事後の管理を引き継ぐ予定で懸命に販売促進に取り組んでおり、幾分、潤うかなと期待しているところです(会場笑い)。

3.大東亜戦争〜実戦3年8ヶ月捕虜容所8ヶ月
 昭和17年10月海軍に志願し、横須賀海兵団に入隊。機関兵として教育を受ける。3ケ月の予定が繰り上げ卒業となり17年12月10日輸送船の護衛艦として駆逐艦に乗船、輸送船2隻、駆逐艦2隻で航海2週間後の12月24日ラバウル港に入港しました。当時、湾内は艦船も多く、停泊強国日本、此処に有りと安堵し、戦場とは思えぬ静かさだった。後ほど聞くと敵さんは、クリスマスで休んだとのこと。5日程、湾内に停泊中、夜間空襲警報が発令され、上甲板で上空を見ると数本の探照灯が敵機を捉え、曳光弾で高度・速度が確認されると一斉に高射砲が射撃され、なぜか実践が花火大会の様だった。未だ戦争の恐怖は知らず。その後、幾多の戦争の厳しさを体験することとなった。戦争における運命は「紙一重」と言われ、又、軍隊は運隊とも言われる様に、その後の生死を分ける運命のいたずらが何回も繰り返された。私達の駆逐隊の任務は、前線基地への軍隊や物資の輸送で、主に2昼夜程度の航海で交代勤務だった。
 18年2月末に、わが隊から護衛艦2隻出動。これが後で知る事になるラバウル港からニューギニヤ島ラエに向かう船団で、輸送船8隻軍隊7千名護衛艦8隻が上陸を明日にした当日午後、連合軍の大空襲により全滅となり浮遊する軍人を駆逐艦に救助された約半数の2700名がラバウルに帰ったが1500名が入院となる大惨事となり其の後の作戦に大きな痛手となった。戦友の駆逐艦も大破し、補修しながら帰ってきたが修理に内地へ送還するので古参兵が乗船し、出航無事を祈り見送った戦争も激しく、遂に乗艦も少なくなり、新兵の我達は81警備隊の所属となり、艦隊勤務4ケ月で陸上勤務。8月にラバウルから80キロ程離れた

ヨーク島の警備隊として着任。高射砲3基・機関砲等の装備であった。
 戦陣訓は1つに訓練、2つに陣地構築、3つに生産、4つに衛生で、1つの訓練は1人で敵兵10人射殺し、手りゅう弾1個は、敵の戦車に投げ、1個は自決用とし捕虜とならず。3つに生産は開墾し、食料のさつまいも・野菜作り・陸米の生産。4つにマラリヤ・テング熱の予防であった。18年11月頃からは連合軍の反撃が激しく、我軍の抗戦も弱まり19年2月頃からは制空権・制海権は連合軍に落ち、毎日の空襲や艦砲の襲撃が続いた。必ず内地から援軍が来る。このままではない、それまで守ろうと必死だった。弾丸や食料の米や缶詰は決戦用として保管し、現地で収穫した食料で飢えを凌いだ。みんな栄養失調に悩まされていた。空襲の途絶えて3日ほどした20年8月19日、わが国は連合軍のポツダム宣言を無条件で受諾した、今後は連合軍の指示に従うと訓示され、4日ほどして連合軍から武装解除の指示があり、立会いのもとに海洋投棄した。暫く待機し、ラバウルの捕虜収容所に移送された。当時ラバウル方面には、11万人の軍隊や軍属が居り、11000単位、8ヶ所の捕虜収容所へ入所した。食料の支給が無いので保管していた食糧と農場の食料を食べ、連合軍使役や農作業ですごしていた21年に入って、順次、日本へ返されると指示があり、私達は3便目の4月20日に復員船に乗り、5月1日に名古屋港に着き、手続きをすませ故郷へ帰った。私には長かった戦争も潮く終わった。
 先の大東亜戦争では、我が国だけでも300万人を優に超えると言われているが、被害者総数は未だに正確には杷握されていない。その中に戦死者として靖国神社に御祭神の英霊は233万人の殉国の御霊です。ラバウル方面には、20万人出兵し、半数の軍人・軍属が戦死しました。多くの犠牲者が出ましたが、全く無駄だったでしようか?いや決してそうでは有りません。戦後の日本の独立を守り、世界の先進国家として世界のl、2位の経済国家として繁栄し、又、一方ではアジア諸国植民地が開放し、独立国家となりました。この点から言っても決して無駄ではありません。又、無駄にしてはならない私達は、御霊に感謝し、世界平和を祈ります。
 私達で結成している海軍ラバウル方面会は、毎年5月第2日曜日に靖国神社の昇殿参拝し、戦没戦友の慰霊祭を行っています。

7.ニコニコボックス

*佐藤 政雄・会員〜戦時中の話を聞いて頂きましたので。
*加藤 庄司・会員〜5月25日、第一回人形供養祭を五井の龍善院で午後2時から開催させて頂きます。市長もお見えになりますので。人形を供養したい方は是非どうぞ。
*川内 信一・会員〜大浦会員から船を譲って頂きました。免許も合格し、これで陸・海・空制覇となりました。釣りの好きな方は一緒に行きましょう。

8.出席報告
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会員総数  :48名
*本日出席者:36名
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本日欠席者:12名
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本日出席率:75%
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前々回出席率:68.7%

9.点鐘 加藤庄司・副会長