2005年3月23日
第2018回例会
SAA(司会)  赤星会員
会報担当  上條会員

例会場&事務局  〒299-01千葉県市原市姉崎584
 п@0436-61-2245 Mail Address:info@ichihara-rc.com
 会長  始関 信夫      副会長  加藤 利夫
  幹事  角谷 修     副幹事  千葉 精春

  市原RC会長 始関信夫

   それでこそロータリー

  なし

 市原RC会長 始関信夫
1) 3月12日 城南ロータリー・クラブ主催のチャリテイ・クラシックカーラリーが行われ、当クラブに長柄アウトレットコンサート会場での警備等の依頼がありまして、小野、籐谷、川内、高澤会員と私の5名が参加致しました。当日は大変寒い気候でしたがファンの方がつめかけ、貴重な車を熱心にごらんになっておりました。クラブのチャリテイ事業の参考になりました。
2)地区より次年度幹事に小池会員、白鳥Gノミニーに地区予算委員、齊藤PDGに諮問委員、地区史編纂委員の仮委嘱状がそれぞれに届いておりますので報告致します。
3)  本日は大変残念ではありますが2名の退会者のご挨拶があります。
  最初に時田会員ですが1993年にご入会し、クラブ幹事、地区社会奉仕委員等を歴任し、女性会員の草分けとしてご活躍下さいました。
  もう一方は横山会員です。2001年にご入会で昨年はインターアクト委員長として今年度当クラブがホストする年次大会の成功を期すため、館山へ視察に行かれ参考資料を準備してくださり、お陰で無事終了することが出来ました。お二方の今後のご健勝を祈念申し上げます。 


例会変更:若潮RC 4/7例会時間変更して6:30より、南風亭(お花見例会)
       袖ヶ浦RC 4/4→4/6 18:00 東電袖ヶ浦火力圧電所(お花見例会)

2005年度米山記念奨学生をホストします。
国籍:ラウス 氏名:パンマミ バリアウさん 男性 24歳 千葉大工学部情報画像工学学部
次回理事会で決定します。

4/20地区研修セミナーが開催されます。当クラブより地区幹事に決定しておりますメンバーで次年度運営のための見学参加をいたします。

時田会員退会挨拶

私、今日が最後の例会となりますので、退会のご挨拶をさせていただきます。
小出元市長様と周郷様のご紹介により入会させていただきまして、もう12年が経ちました。あっという間でございました。当時、親睦委員長の三木さんはじめ皆様方がさりげないお心配りをして下さいましたので、すぐに溶け込むことができました。ありがとうございました。
4年間女性は私一人でその後西村さんがお入りになり、現在は多くの女性会員がご入会されて、女性会員第一号の私としては大変嬉しく思っております。
私は今までずっと仕事、会合、仕事、会合、ロータリーと忙しく日々をおくってきましたので、母親らしきことも余り出来ず、嫁らしきことも満足にできなかったものですから、これからは孫の面倒をみたり、90歳を過ぎました舅や姑、私の母等の面倒を見ていきたいと思い、退会を決めました。それに自分のやりたかった趣味のお稽古も丁度水曜日なんです。そのような理由で昨年の10月頃に退会届を出しました。齊藤先生、三木さん、白鳥さん、菊地さん、小池さんはじめ多くの皆様方にお引止めいただきまして大変ありがとうございました。他のクラブの方々からもお電話をいただいたり、ロータリー以外の会合でお会いした折に「退会するって聞いたけれど、本当? 辞めないで頑張ろうよ」などと多くの方に言われ、本当に驚きと感謝の気持ちで一杯でございます。やめるとちょっと淋しいかなぁと思いましたけれど、私もまだ現役でおりますので皆様にお会い出来るから大丈夫と思いました。法人会や警察友の会、商工会議所などのお役をいただいておりますし、会議所の女性会会長もお受けしておりますので、これからもまだまだ皆様方にお会いする機会が沢山あります。どうぞ今後ともよろしくご指導をお願い申し上げます。地区の社会奉仕委員のお仕事も3月15日にすべて終了しましてお役目も終わりホッとしております。
長い間お世話になりました。ロータリーで学んだことをこれからも公私共に生かしていきたいと思います。結びに皆様のご健勝とご繁栄を、そして市原ロータリークラブの益々のご発展を心よりお祈り申し上げまして、退会のご挨拶とさせていただきます。

横山会員退会挨拶

この度、3/29の株主総会で大多喜ガスを退職することになりましたので、退会させていただきます。約4年前に入会させていただき、初年度は出席委員を仰せ付かり、自らは欠席しないようにしておりました。2年目以降は不良会員だったように思います。
今後は大多喜ガスの親会社であります関東建設(配管工事・土木工事)、テクノアース(井戸掘り・地盤調査・環境処理)両会社に勤務します。
皆様には非常に沢山の糧をいただきました。その糧を大切にこれからの人生に生かして行きたいと思っております。今後もよろしくお願いします。

 なし



卓話:日米開戦当時を偲んで

佐藤 勇会員

昨年12月8日の例会で、大正生まれ3人で、今から63年前の昭和16年12月8日の日米開戦を、思い出し乍ら、卓話をということでしたが、私の人院で中止になりました。『やれやれ助かった』と、思って居りましたが、「今日やってくれ」との事で、再び卓話に成りました。
先々週、夏井会員の「我が青春と大東亜戦争」という卓話を拝聴しました。当時を色々と、思い出しましたが、昭和16年12月8日の米英に対する宣戦布告等に付いては、夏井会員の卓話の中で述べられているので、私の話は、私自身が経験したことや、見たり聞いたりしたことをつ二つ、思い出しながら話を致します。
昭和16年12月、私は東京の蒲田で須賀機械青年学校の4年生でした。昼は働き夜勉強する生活でしたが、学校の講堂兼教室にラジオがあって、毎朝ニュースを聞いておりました。
その四年前、昭和12年7月7日、北京効外のろ溝橋で日本軍と中国軍の衝突事件がありました。所謂日支事変が起きて、私の長兄は逸早く召集されて真夏の翌8月、支那に出征して行きました。近衛内閣のときです。それからは毎日のように日本軍の勝利のニュースをラジオで流して居り、国民に対して戦意の昂揚を煽って居りました。12月の8日の朝もラジオのスイッチを入れたら、「大本営発表」の臨時ニュースとして、勇ましい軍艦マーチと共に、ハワイ真珠湾への奇襲攻撃と、戦艦、航空母艦撃沈という戦果でした。そして陛下の米英に対する宣戦詔書が布告されたのです。これには私達もすっかり興奮して「やった」「やった」と大騒ぎをしました。ここは夏井会員の話と同じです。
当時我々国民は、日本軍の勝利を確信し、日本の国策は正しいものとして何の疑いも持ちませんでした。「国民皆兵」を国策とした教育を受けており、日支事変の戦況でも、常に日本は勝つと、思っていました。前線は支那を通り過ぎて遠く東南アジアまで、連戦連勝の進撃を続けていた頃です。ノモンハンで関東軍がソ連軍から、大敗して逃げ帰った事など知る由も無かったのです。
先ほども話をしたように、その時日本は日支事変の真っ最中でした。 中国での戦場を戦地と言い前線といって、日本の国内は、銃後と云って守りに結束しておりました。日支事変以来日本では、現役の兵隊以外に、臨時召集令状が発せられ、予備役の軍人や一般の男子に対して、軍人として戦場に送り出したのです。この召集令状が赤い紙に印刷されていたので、これを赤紙"と言いまました。所謂赤紙が来たといって、若い二十代、三十代前後の男の居る家では、内心恐怖だったのです。男は戦場に行って、お国の為に命を捨てることは名誉なことであり、当然のこととして認識はしているのですが、この赤紙が突然家に来て、否応無しに戦地に送り込まれることは、何処の家でも緊張感溢れることだったのです。そこで出征兵士を送り出す家庭では、「お国の為に命を掛けて頑張って下さい」と云う願いと共に、「何とか生きて帰って欲しい」との願いも有ったのです。そしてその願いを込めて「千人針」を作って戦地へ持たせたのです。どんな物かといいますと、手拭位の大きさの白い木綿に、虎の絵を書いてその線に沿って赤い糸で、千個の結び玉を1,OOO人の人に一つずつ作ってもらい、真中に弾丸徐けとして五銭玉を縫い付けたものでした。虎年生まれの人には、年の数だけ縫い玉を作ってもらえるといって大もてだったそうです。何故か、虎はアジアで百獣の王様であり、千里先まで行っても千里必ず帰るという言い伝えに拠ったものでした。なぜ五銭玉かというと四銭(死線)を超えて帰るということだったのです。何時の時代でも吾が子の無事を祈らない親は無かったのです。しかしながらその願いも空しく、多くの戦死者が出たのも周知の事実です。次に、先にも言いましたが、この戦争による兵力の増強のため臨時招集令状が発せられたのです。これが赤い紙に印刷されておりましたが、私は見たこと有りませんでした。戦後20年を過ぎて昭和41年、山形県の羽黒町で編集刊行された戦没者追悼集を、編集した友人から頂いたのですが、その追悼集は素晴らしいもので、その当時宮内省にも贈呈されたものです。その分厚い本の中に一枚、赤紙に印刷した臨時招集令状が綴じ込んでありました。私も初めて見たものでした。切り離すのも惜しいのでコピーしてきましたので回覧します。ご覧下さい。これは山形連隊区司令部から発行された物を再現したようです。当時働き手の男が居た家では、この「赤紙」は恐怖だったそうです。若しこの「赤紙」を拒否して兵役を逃れたら国賊として非難されたそうです。そんな中での目米開戦だったのです。
それから2年後の昭和18年、私は20歳になって兵隊検査があり、乙種合格となり19年2月10日、当時の満州国に在る目本の工兵部隊に入隊しました。兵隊になったことで『男子の本懐これに勝るもの無し』と、国のために命を捨てることを誇りに思っていたものです。
入隊から1年半、昭和20年8月9日、日ソ開戦となり、僅か8日間の間3回の命拾いをしながら、18日にソ連軍に投降するまで、国の為に命は捨てるものと思って働いて居た私でしたが、まさか捕虜となって生き長らえるとは、夢想だにしませんでした。昭和16年12月8日の宣戦布告から、僅か3年8ヶ月余りの終戦でした。私はそのとき22歳の誕生日を、8月5目に迎えたばかりでした。
終戦から60年、日本は生き残った青少年や国民の、懸命の努力により、今日の豊かな国に成長しました。私は、昭和16年頃の、日本の国策の中で行われた、子供たちへの一貫した愛国精神の教育の凄さを、今改めて感じています。即ち20歳になったばかりの私達が、国のため、村のため、家の名誉の為に親兄弟も顧みず、戦場で死ぬことを当然と思っておりました。今思えば無謀極まる話ですが、私自身が敵の戦車に対して爆弾を抱えて斬り込みに出た事もあり、教育の恐ろしさを体験しております。
現在は、戦後の民主主義教育の下に約60年、学校教育が行われて参りました。然し、知識と科学万能の中に、欠落していた道徳的教育の重要さを痛感しております。60年前には、親や子供が殺し合うことなど有りませんでしたし、殺人事件なども殆ど無かった。然し現在は殺人事件の無い日が無い。全く嘆かわい限りです。
世界の国々と平和に共存共栄の大切さを教えると共に、親や兄弟に対する愛、尊敬心、他人に対する思い遣り等、社会生活における道徳的規律、人の命を大切にする教育をやるべきであると、私はつくづく思って居ります。
最後に昭和16年12月8目に発せられた、宣戦詔書の写しです。
ご一読下さい。      

宣戦詔書

天祐ヲ保有シ万世一系ノ皇祚ヲ践メル大日本帝国天皇ハ昭カニ忠誠勇武ナル爾有衆二示ス
朕ハ茲二米国及英国二対シテ戦ヲ宣ス朕カ陸海将兵ハ全力ヲ奮テ交戦二従事朕カ百僚有司ハ励精職務ヲ奉行シ朕カ衆庶ハ各々其ノ本分ヲ尽クシ億兆一心国家ノ総カヲ挙ゲテ征戦ノ目的ヲ達成スルニ遺算ナカランコトヲ期セヨ

抑々東亜ノ安定ヲ確保シ以テ世界ノ平和ニ寄与スルハ丕顕ナル皇祖考丕承ナル皇考ノ作述セル遠献ニシテ朕ガ拳々措カザル所而シテ列国トノ交誼ヲ篤クシ万邦共栄ノ楽ヲ偕ニスルハ之亦帝国ガ常二国交ノ要義ト為ストコロナリ
今ヤ不幸ニシテ米英両国ト釁端ヲ開クニ至ル洵ニ巳ムヲ得ザルモノアリ豈朕ガ志ナランヤ中華民国政府?ニ帝国ノ真意ヲ解セズ濫リニ事ヲ構エテ東亜ノ平和ヲ撹乱シ遂ニ帝国ヲシテ干戈ヲ執ラシムニ至ラシメ茲二四年有余ヲ経タリ幸二国民政府更新スルアリ帝国ハ之ト善隣ノ誼ヲ結ビ相提携スルニ至レルモ重慶二残存スル攻権ハ米英ノ庇蔭ヲ恃ミテ兄弟牆二相鬩グヲ悛メズ米英両国ハ残存政権ヲ支援シテ東亜ノ禍乱ヲ助長シ平和ノ美名二匿レテ東洋制覇ノ非望ヲ逞ウセントス剰へ余国ヲ誘イ帝国ノ周辺二於テ武備ヲ増強シテ我二挑戦シ
更二帝国ノ平和的通商二有ラユル妨害ヲ与へ遂二経済断交ヲ敢エテシ帝国ノ生存二重大ナル脅威ヲ加フ朕ハ政府ヲシテ事態ヲ平和ノ裡二回復セシメントシ隠忍久シキニ弥リタルモ彼ハ毫モ交譲ノ精神ナク徒二時局ノ解決ヲ遷延セシメコノ間却ツテ益々経済上軍事上ノ脅威ヲ増大シ以テ我ヲ屈従セシメントス斯ク如クシテ推移セムカ東亜安定二関スル帝国積年ノ努カハ悉ク水泡二帰シ帝国ノ存立亦正二危殆二瀕セリ事既二此二至ル帝国ハ今ヤ自存自衛ノ為蹶然起ツテ一切ノ障礙ヲ破砕スルノ外ナキナリ
皇祖皇宗ノ神霊上ニアリ朕ハ爾有衆ノ忠誠勇武二信僑シ祖宗ノ偉業ヲ恢弘シ速二禍根ヲ芟除シテ東亜永遠ノ平和ヲ確立シ以テ帝国ノ光栄ヲ保全セムコトヲ期ス

御名御璽

昭和十六年十二月八目

天佑(てんゆう=天の助け)を保有(ほゆう=自分のものとして持っていること)し萬世一系(ばんせいいっけい=永遠に皇統が続くこと)の皇祚(こうそ=天皇の位)を踐(ふ)める(位につく)大日本帝國天皇は昭(あきらか)に忠誠勇武(ゆうぶ=勇ましくて強いこと)なる汝(なんじ)有衆(ゆうしゅう=君主から人民を呼ぶ称)に示す
 朕(ちん=天皇の自称)茲(ここ)に米國及英國に對して戰を宜(せん)す朕が陸海將兵は全力を奮(ふるっ)て交戰に從事し朕が百僚有司(ひゃくりょうゆうし=多くの官僚・やくにん)
勵精(れいせい=精をだすこと)職務を奉行(ほうこう=上の者の命令に従って事を行うことし朕が衆庶しゅうしょ=庶民は各々其の本分を盡(つく)し億兆(おくちょう=多くの人民)一心國家の總力を擧けて征戰(せいせん=戦いにおもむくこと)の目的を達成するに遺算(いさん=手落ち)なからむことを期せよ
 抑々(そもそも)東亞(とうあ=アジア東部―中国・朝鮮・日本)の安定を確保し以て世界の平和に寄與(きよ)するは丕顯(ひけん=おおいにかがやかしい)なる皇祖考(こうそこう=明治天皇)丕承(ひしょう=立派に受け継ぐ)なる皇考(こうこう=天皇が死去した先代の天皇をいう言葉)の作述(さくじゅつ=先人の意見を述べることと新説をだすこと)せる遠猷えんゆう=遠い将来まで考えた計画にして朕が拳々けんけん=両手でうやうやしく奉げもつこと(お)かざる所而(に)して列國(れっこく=多くの国々)との交誼こうぎ=親しい交際を篤(あつ)くし萬邦ばんぽう=あらゆる国共榮(きょうえい)の樂を偕(とも=一緒)にするは之亦(また)帝國が常に國交の要義(ようぎ=重要な意義)と爲す所なり今や不幸にして米英兩國と釁端きんたん=争いのはじめを開くに至る洵(まこと)に已むを得さるものあり豈あに=あいえない朕が志ならむや中華民國政府曩さきに=前にに帝國の眞意を解せず濫(みだり)に事を構へて東亞の平和を撹亂(かくらん)し遂に帝國をして干戈かんか=戦いを執(と)るに至らしめ茲に4年有餘を經たり幸に國民政府更新するあり帝國は之と善隣の誼(よしみ=したしみ)を結び相提攜(ていけい)するに至れるも重慶じゅうけい=中国四川省の四川盆地にある都市に殘存せる政權は米英の庇蔭ひいん=助けまもることを恃(たの)みて兄弟(けいらい)尚未だ牆かき=かきねに相鬩(せめ)ぐを悛(あらた)めず米英兩國は殘存政權を支援して東亞の禍亂からん=世の災いになるような騒動を助長し平和の美名に匿(かく)れて東洋制覇(せいは)の非望(ひぼう=身分にふさわしくない望み)を逞(たくまし)うせむとす剰(あまつさ)へ與國よこく=同盟国を誘ひ帝國の周邊(しゅうへん)に於て武備ぶび=軍備を増強して我に挑戰し更に帝國の平和的通商に有らゆる妨害を與(あた)へ遂に經濟斷交を敢(あえ)てし帝國の生存に重大なる脅威を加ふ朕は政府をして事態を平和の裡(うち)に囘復(かいふく)せしめむとし隠忍いんにん=じっと我慢すること久しきに彌(わた)りたるも彼は毫ごう=ほんの少しも交譲(こうじょう=互い譲り合う)の精神なく徒(いたずら)に時局の解決を遷延せんえん=延び延びになる事せしめて此の間却(かえ)つて益々經濟上軍事上の脅威を増大し以て我を屈從くつじゅう=屈服せしめむとす斯(かく)の如(ごと)くにして推移せむか東亞安定に關する帝國積年の努力は悉(ことごと)く水泡に帰し帝國の存立亦正に危殆(きたい=非常に危険なこと)に瀕(ひん)せり事既に此に至る帝國は今や自存自衛の爲蹶然けつぜん=勢いよくたちあがるさま)起つてー切の障礙(しょうがい)を破碎はさい=こなごなにするするの外なきなり 皇祖皇宗こうそ-こうそう=天照大神{あまてらすおおみかみ}に始まる天皇歴代の祖先の神靈しんれい=神のみたま上に在り朕は汝有衆の忠誠勇武に信倚しんい=しんらいし祖宗の遺業を恢弘かいこう=広く大きくすることし速(すみやか)に禍根かこん=災いの起こるもとを芟除さんじょ=除き去ることして東亞永遠の平和を確立し以て帝國の光榮を保全せむことを期す

御 名 御 璽(ぎょめいぎょじ)



会長・幹事:時田さん、横山さん、長い間お世話になりました。
        佐藤(勇)会員、貴重なお話をありがとうございました。
        時田会員:長い間ご指導ありがとうございました。

横山会員:4年に満たない短い期間でしたが、在籍中は皆様の温かいご指導ご厚情を賜り、ありがとうございまいした。皆様から与えられた糧を宝に、これからも頑張っていきます。皆様のご健勝と会に益々のご発展をご祈念申し上げます。

三木会員:3/14の袖ヶ浦・市原合同ゴルフコンペで、とんでもないミスをしまして、始関会長に助けられました。ありがとうございます。

菊地(政)会員:袖ヶ浦・市原合同ゴルフコンペでバーディーが2回、ニアピン賞もいただきました。また、先日、鶴舞CCにおいて、角谷さん、小池さん、上條さんからニギリでたくさん稼がせていただき、ありがとうございました。

蔵内会員:早いものです。東京から当地(市原)に転居して、蔵内医院を開設して30年になります。本日30周年祝賀会を行います。杉花粉症の時期で患者の皆様にお待たせして、ご迷惑をお掛けしています。

川内会員:先週の袖ヶ浦RC合同夜例会で、名札回収後に持って帰ってしまいました。お届けが遅くなってすんません。

佐藤(勇)会員:つたない卓話、御静聴ありがとうございました。

小池会員:3/20地区チーム研修セミナーに、次年度地区幹事の会員の方々、ご苦労さまでした。

前々回出席率 83.9%

本日出席   45

本日欠席   11

本日出席率  80.4%

   市原RC会長 始関信夫