学者や文学者の家系に生まれ早熟だった彼女は、当時流行していた源氏物語にあこがれ、早く都に帰りたいと思う一方で、遊び慣れたところを去りがたいという子供らしい気持ちも強かったのです。大人と子供のはざまで揺れる繊細な乙女心が、「あづまぢのはて」のような言葉になって表われたのかもしれません。

■作者が過ごした当時の市原
菅原孝標が、寛仁元年(1017)から4年間務めた上総国府は、村上説、郡本説、ふるこうの地名説などさまざまな論議がありますが「ここが国府」と特定できるような決め手とはなってません。しかし、万葉の歌にうたわれた「庭中の阿須波の神に小柴さし吾は斎はむ帰り来までに」の阿須波の神は、古くから旅の安全を祈る神社として今でも市原に鎮座しています。更級日記の作者も旅の安全を阿須波の神にお祈りしたことでしょう。
 近年、阿須波神社のすぐ脇から、海岸に向かう1本の古代道が発掘調査によって見つかりました。この道は古くから飯香岡八幡宮の祭礼の一つである柳楯神事が行われるとき使われる道です。阿須波神社から東300mに光善寺廃寺(七世紀後半の開基)があり、孝標女が残していった等身の薬師仏も京に帰った後、この寺にあずけられたかも知れません。阿須波神社から1km南の藤井に明治の廃仏毀釈まで、守公山楊柳寺神守院がありました。
 現在は、寺山とも呼ばれており、この近くの竹薮の中に、阿須波から続く幅5・6mの古代の道が残っています。この道は、山倉方面に延びていて、王賜銘鉄剣の出土した稲荷台古墳もこの道に沿ってあります。近年、山倉周辺の古代道(官道)は、発掘調査されて、その全貌が明らかになりつつあります。平安時代の市原(上総国)には、国府があり、市原郡衙・海上郡衙、そして国分僧寺などがあり、今ならば「地方の大都市」といっても過言ではないと思われます。 このような中を菅原孝標女は散策し、時には牛車で官道を遠出したことでしょう。

音楽劇「更級日記讃歌」
11/3「上総国分尼寺跡」で、音楽劇を中心とした初の市民公演開催。地域文化の振興を目指し「上総更級会」(酒枝次郎理事長)が主催。ヒロインなど出演者を公募。市民参加の舞台とし、演出担当の1人、原島義治氏は、広大な尼寺跡に野外ステージを設け、筝曲や尺八、琵琶など雅楽を駆使した和製ミュージカルに仕立て1000人以上の観客を動員し、大盛況の内に幕を閉じた。

■史跡上総国分尼寺跡展示館
国指定史跡「上総国分尼寺跡」は市役所に近い国分寺台中央に立地。国分寺は、天平13年(741)聖武天皇の詔によって全国60ヶ所余りに建設された僧寺と尼寺からなる国立寺院。上総国分寺は敷地の広さは全国有数で、特に尼寺の寺域は全国最大。現在、展示館ときらびやかな天平文化の中門や回廊などが復元されている。

国分尼寺正門 回廊

●川島会長挨拶
移動例会には北風の寒い折、多数ご出席頂き有難う御座いました。酒枝理事長以下、第2回更級会も大成功で終わり、常泉会員のお経もなかなか堂に入ったもので、全くの素人の集団でも努力さえすれば充分説得力をもった作品が出来るものだと思いました。市長を含め、たくさんの来賓の方々にも賛辞の言葉を頂いたとの事です。会員皆様の御協力、有難う御座いました。尚、週報は川内会員の力作です。


菅原孝標女(すがわらたかすえのむすめ)道中の様子